土塔発掘調査からみる行基の活動(1/2ページ)
堺市文化財課学芸員 近藤康司氏
奈良時代の高僧行基は、聖武天皇の東大寺盧舎那仏(大仏)建立に協力したことが小学校の社会科の教科書にも登場しており、その名を知らしめることとなっている。では、なぜ、行基が聖武天皇に登用されるに至ったかを出身地である堺市中区に自らが建立した大野寺・土塔の発掘調査成果から探ってみたい。
行基は生涯、通称四十九院とよばれる寺院建立や、架橋・造池・布施屋(税運搬者などのための宿泊施設)建設などの社会事業を多数行っているが、これらは関連した事業であると考える。この行基建立寺院の一つに大野寺があり、この大野寺の塔が土塔である。土塔は堺市中区土塔町に所在し、遺跡名が町名にもなっている。平成10(1998)年度から史跡土塔の発掘調査が開始され、その成果を基に史跡整備工事が行われ、平成21(2009)年に完成した。以下では、その発掘調査で明らかになった事実を紹介し、そこから考察できることを述べたい。
土塔は、文字どおり土で造られた塔である。土を盛る際には、30センチ四方の粘土の塊を並べて型枠とし、その内側に土を盛り上げていった。調査の結果、この粘土の塊の列が13本確認できたことから、十三重塔であることが検証できた。塔身は平面正方形で、いわゆる段塔の形式である。しかし、塔頂にあたる十三重の粘土塊の列をみると、基部が円形であることがわかった。塔頂付近から相輪などが出土したことから、木造の建築物があったことが想定でき、形状は八角形の建築物を想定した。また、土塔の十三重の塔身の下には、基壇とよばれる土台の部分もみつかり、周囲には割った瓦を積んでいた。この基壇がみつかったおかげで、土塔の規模が一辺53・1メートルに復元できた。当時は、天平尺という尺度が使用されており、1尺が29・5センチで、180尺となる。また高さは、現況では8・6メートルであるが、13重目にあたる建築の高さを考慮すると10メートルは超えていたであろう。
国内初の本格寺院である飛鳥寺は、丸瓦と平瓦を用いた本瓦葺きで、以後、寺院には本瓦葺きが採用された。土塔は、盛り土で建立されたにもかかわらず、各段の平坦面を屋根に見立て瓦を葺いている。瓦はその数、合わせて6万7800枚と試算された。参考として挙げておくと、唐招提寺の金堂が4万4千枚、東大寺大仏殿が10万枚である(現在の堂宇の修理時)。
発掘調査で出土した瓦には、文字を記したものがあり、大きく2種に大別できる。まず一つは、軒丸瓦の瓦当面(蓮の紋様が描かれる正面にあたるところ)に「神亀四年□〈丁〉卯年二月□□□〈三日起〉」(□は文字が欠けている部分。〈〉は復元)と記されたものが2点出土した。この年号は、平安時代の安元元(1175)年に記された『行基年譜』とよばれる、行基の事績を記した記録の大野寺の創建年代の記載と合致する。文献資料に記された記事と、発掘調査で出土した考古学的な資料の内容が一致したことで、大野寺・土塔の建立年が727年に確定したといってよい。
次に、もう一つの瓦への文字の記載は、焼成前の丸瓦、平瓦にヘラ書きで人名が記されたものである。現在までに、約1250点が出土している。この人名瓦は、名前を詳しくみると、僧尼関係、姓を持つ氏族、持たない氏族に分類できる。僧尼名は、さらに優婆塞、優婆夷、童子に分類できる。姓というのは、国家から氏族の中でも有力な氏族に与えられる称号で、臣や連、宿禰などがある。また、女性名が一定数みられることから、女性も知識として参加していたことがうかがえる。