土塔発掘調査からみる行基の活動(2/2ページ)
堺市文化財課学芸員 近藤康司氏
では、なぜ瓦に名前を書いたのか。行基が土塔を建立する際に、参加した人々が協力した証しとして名前を記したと考える。要は、土や瓦を運ぶといった労働力の提供、あるいは食料や金銭などを寄進した人々もいたであろう。このように仏道に寄進を行い、結縁を結ぶことを仏教用語で知識という。出土した人名瓦の枚数以上の千人以上の知識の人々が土塔建立に集まったであろう。『新撰姓氏録』という文献には、氏族がどの地域が本拠地であるかが記されている。当時の氏族名の氏(現在でいう名字)は地名に通じる名前が多く、これを参考にみると、やはり土塔が建立された和泉国(建立時は和泉監)大鳥郡の氏族が多い。一方、摂津国北部といった遠方の氏族名もみえる。このことから、土塔建立にあたっては、近隣だけでなく、遠方からも集まり知識の集団を結集していたことがわかる。ただ、土塔建立以前に、すでに各地から大鳥郡に集って来ていたという考え方もある。このように、行基の知識というのは土塔だけではなく、四十九院の建立や、社会事業を行う際にも結成されていたと考える。
次に、土塔建立の意義について考えてみたい。塔を建立することは『造塔功徳経』や『造塔延命功徳経』をみると、塔を建立することで寿命延長、天人界に生まれることができる、無間の罪を滅ぼすことができる、菩提を得ることができるといったことが記されており、知識たちは土塔建立に参加することで、このような功徳を得ることを求めたのであろう。しかし、行基は四十九院という多くの寺院を建立しながら、土塔のような建築は大野寺のみに建立した。なぜか。行基は、平城京近辺で活動が僧尼令違反として弾圧されたため、京を出て郷里の和泉へ戻った。そこで、始めたのが社会事業で、土塔も和泉へ戻って間もなく建立している。土塔は、これから始まる行基と彼を支える知識集団の活動のいわばシンボルとしての位置づけができるのではないか。さらに、土塔を建立したのは大鳥郡土師郷という土師氏の本拠地である。土師氏は古墳時代以来、古墳の築造など土木技術に長けており、土塔出土の人名瓦にも土師氏のものが多数出土している。つまり、行基の知識の中でも大檀越だったであろう。行基の土木技術を伴う社会事業においては土師氏の助力は欠かすことができなかったのだ。このように、土師氏の本拠でもある当地の建立が相応しかったのであろう。
また冒頭に述べた、行基はなぜ塔を土で造ったかについて答えを考えてみよう。木造の塔というのは、建築の専門的な知識が必要だ。しかし、土であれば建築の専門的な知識がなくても、誰もが参加できる。まさに、知識全員が建立に参加できる形態の塔を建立したかったためであったということができよう。
では、土塔を建立することで、行基と知識たちは何を求めたのだろうか。文字を記した瓦の中に、先祖を追善する内容のものがある。当時の寺院建立は、先祖の追善というのが人々の大きな目的であった。さらに、文字瓦ではないが、円筒状の須恵器の外面に罫線を引き、願文を記したものが出土しており、これは国内では他に例をみない遺物である。この文言の中に、「天皇尊霊」という文字がみえる。これは、歴代天皇の霊の安穏や極楽往生を願ったものではないかと解釈されている。これは内容や文字の美しさからして、貴族クラスの人物が書いたものと思われる。土塔建立には、このような願いが込められていたと思われる。
最後に、行基の思想は福田思想とよばれ、これは善い行為の種子をまいて功徳の収穫を得る田地の意味で、仏教社会福祉の理念を知る語である。大乗仏教では菩薩(求道者)の智恵と慈悲に基づく利他行が重視されたので、福田思想は仏教徒の社会的実践の基本となったのである。行基の行った社会事業はまさに、自ら事業に参加することで民衆のために力を尽くす福田そのもので、これにより多くの知識たちは仏教の功徳を得ることを希求したのであろう。ひいては、この行基の知識の原理は、聖武天皇の東大寺盧舎那仏建立の際にも引用され、行基にとっては、知識活動の集大成といっても過言ではなかろう。