日本近世は仏教の時代?(1/2ページ)
東北大学術資源研究公開センター助教 曽根原理氏
近年、天海(1536~1643)という僧侶の知名度が急上昇しているように思われる。彼は日光東照宮に徳川家康を東照大権現として祀ったことで知られるが、一方で明智光秀との同一人説など、伝奇・伝承的な方面で取り上げられることも多い。小説などでは超人的な活動が描かれたりするが、実際はどうだったのだろう?
彼の実像が分かりにくい理由の一つは、著作がほとんど無いことにある。わずかに『東照社縁起』全8巻(日光東照宮所蔵、国指定重要文化財)が残されたが、これが難解。和漢の古典の引用が多く、また元の文献をふまえて書かれているため、古典や仏書の基礎知識が無いと読み解けない。しかも単なる知識だけでなく、半ば研究段階である中世の神道思想の理解が求められる。私が最初に同書解読を試みたのは20年以上前だが、今でもしばしば新たな発見がある。
そのためか天海の存在意義は、個別の事績(東照宮や輪王寺門跡の創設に向けた活動、天台宗教団の再編など)によって判断されてきた。政僧としての扱いと言える。当然、彼個人の思いは不明・不問のままで、それはフィクションの世界でしか扱えなかった。しかし私は、思想家としての天海に改めて注目したい。なぜなら彼は、前代の宗教思想の継承者として活動し、最大の業績は日本を仏教国にしたことにあるからだ。従来指摘されたことが乏しく、分かりにくいかもしれない。少し説明しよう。
現代の日本人の宗教意識においては無宗教の割合が高く、さらに今後も増加傾向にあるといわれる。しかし、葬儀や年中行事(初詣や節分など)を見る限り、人々と僧侶(寺院)や神職(神社)との縁は、今なお浅くない。世代や地域による差は大きいとしても、時に読経を聞いたり、お祓いを受けたりすることは、決して珍しいことではないだろう。では、いつからそれが普通のことになったのだろうか?
専門の研究者の間では、天皇や将軍から一般庶民に至るまで、神道と仏教が浸透し定着したのは近世初期と考えられている。目立った画期となるのは「寺檀制度」(国民全てが特定の寺院の檀家となる制度)の定着であるが、その前に国のトップが「日本は仏教国」と宣言したことは、意外と知られていない。実は対キリスト教を念頭に、豊臣秀吉は外国宛書簡に神道・仏教・儒教の三教一致を日本の宗教的立場として挙げ、徳川家康が発令した教禁令にも「神国」と並び「仏国」の主張がある。その出来事の帰結を示す事件の一つが、徳川家康の死後に勃発した神号論争であった。家康を神に祀るに際し、仏教と一線を画した「唯一宗源神道(=吉田神道)」に基づき、「大明神」を主張したのが金地院崇伝や神龍院梵舜であった。それを阻止し、神仏習合の神道(山王一実神道)に基づく「大権現」とするべく、二代将軍(徳川秀忠)を説得し成功したのが天海である。家康の神号が「東照大権現」に決定し、神仏習合という国家方針が公認されたことが、寺檀制度をはじめ、近世の宗教秩序を作っていく基本になった、と私は考える。明治政府の「神国」は、神道に特権的な立場を付与したが、徳川将軍はその選択肢をとらなかったのである。
ひと昔前の日本思想史の通説では、次のように語られていた。「中世までは仏教の時代だが、信長や秀吉の弾圧と再編により近世仏教は安定し、堕落した。林羅山や山崎闇斎は、初めは僧侶だったが、仏教よりも儒教に魅力を感じ還俗して儒学者となった。そのように、近世思想の中心は儒学(朱子学・徂徠学など)となり、そこから近代につながる思想が生まれた」と。