印融500回忌に寄せて(1/2ページ)
駒澤大非常勤講師 遠藤廣昭氏
今年、500回忌を迎える印融(1435~1519)は真言密教の学僧で、15世紀の中頃から16世紀の初頭にかけて活躍した僧侶である。この時代はまさに戦国の様相を呈した時代であったが、南関東を中心とした地域で布教・弟子の養成・著作活動に邁進し、後に弘法大師の再来とまで称賛された。しかし、このような学僧が戦国時代、南関東を舞台に活躍していたことは案外知られていない。
印融は長禄元(1457)年12月21日に「仁王経大事」を書写している。これが印融の名が見える最初の史料である。彼は永享7(1435)年に生誕するが、これ以降長禄元年までの行状は明らかでない。『本朝高僧伝』には、武州久保県(横浜市緑区三保町久保)の人で、幼少より勉強家で多数の書物に目を通し、書物を読めばたちまちその内容を記憶したという。郷里には師と仰ぐ僧侶がなく、久保を離れ京都・奈良で勉学に励み、のち高野山無量光院に入り宗学を研鑽とある。
『三宝院伝法血脈』の印融の項には、「自分は幼い頃より老長の現在に至るまで、真言宗の事相・教相を学び、梵漢の両文を学び、さらには多数の書物の書写を行い、稽古研鑽に努めてきたが、愚鈍のため己の本懐を遂げられない」と述べている。この学徳を慕った関東の古義真言宗の談林(僧侶の養成機関)60余箇所は、いずれも印融の肖像を写して歳時饗祭したという。
印融は長禄4(1460)年に師賢継から、鳥山三会寺(横浜市港北区)で三宝院流道教方を伝授される。また、文明元(1469)年に西院流能禅方を同寺住持の鎮継から、同12年には石川宝生寺(横浜市南区)で長円(覚日)より相承する。さらに同年、西院流元瑜方を榎下観護寺(横浜市緑区)で円印より、翌13年には石川宝生寺で覚日(長円)より相承する。
印融は三宝院流道教方と西院流能禅方・元瑜方の二流三方を相承しているのである。同10年頃、印融は相伝した三宝院流道教方の重書を悉く集め、それに独自の解釈も加えて印融法流の根本とも言うべき「印融廿四帖」を完成させる。その後、印融の法流は「印融方」「印融廿四条方」と称され、伝授・相承されて行く。
印融付法の弟子は37人を数える。最初の弟子は祐栄で、応仁3(1469)年に太田東福寺(横浜市西区)で三宝院流道教方を伝授する。これ以後、観護寺・金沢光徳寺(現在の龍華寺、横浜市金沢区)・三会寺・宝生寺、また柿生王禅寺(川崎市麻生区)、高野山二階堂(和歌山県高野町)、浦和延命寺(さいたま市浦和区)等で三宝院流を弟子たちに伝授する。西院流では元瑜方を文明13(1481)年に観護寺で長證に伝授して以後、光徳寺・石川慶(広)福寺・白根遍照院・柚木即清寺(東京都青梅市)で伝授する。また、能禅方は同14年に光徳寺で融弁に伝授して以後、観護寺で伝授する。印融は、武蔵国南部の真言宗寺院に出向いて付法を行ったのである。
付法の弟子の中で、その後の事績が知られる者に融弁と覚融がいる。
融弁は光徳寺の住持で、同6年に観護寺で三宝院流道教方を、同19年に光徳寺で西院流能禅方・元瑜方と、印融相承の二流三方を悉く伝授される。文明年中には浄願寺を光徳寺とともに兼帯し、明応8(1499)年には、両寺を併合し龍華寺とする。同寺の旧本尊弥勒菩薩坐像の胎内文書には、同9年12月12日の開眼日と願主法印融弁の名が見られる。その画像も残されている。
覚融は、武蔵の人で、仙順房といい、明応2年に王禅寺で三宝院流道教方を伝授されて以後、西院流元瑜方・能禅方を悉く相承する。同9年に印融が書した『惣譜伝』によれば、覚融は印融から長年の学功を認められ、「教相法水一滴不残」授写を許される。覚融を棟梁・正嫡と決めた印融は、高野山無量光院にいる覚融に対し、永正3(1506)年以後、『八転声私抄』『諸書得解抄』『宗義喩説拾集鈔』『十住心広名目』を著作・書写し勉学のため与えている。覚融は、天文13(1544)年、高野山金剛峯寺の第187代検校にまでのぼり詰めるのである。
無量光院は、白河院第四皇子覚法親王の開基で、印融中興の寺院であるが、覚融の後も清胤・玄仙・玄廣と学匠が続き、中でも清胤は越後の戦国大名上杉謙信の真言宗の師として有名である。無量光院の住僧はこの他、甲斐武田氏・駿河今川氏・安芸毛利氏等戦国大名と関係を保ちながら、印融法流を各地に展開させる。