古義大学林の尼僧学籍簿について(1/2ページ)
尼僧史研究家 松山文佳氏
高野山大図書館に、同大の前身となる明治19(1886)年開校の古義大学林『尼僧近士學籍』がある。尼僧学籍簿があるということは、入学した尼僧は高野山に居住して古義大学林に通学したのだろうか。
明治元年に神仏分離令が出された後、僧尼の管理は明治3(1870)年から民部省、大蔵省と変遷して、明治5年3月に教部省となった。同省は国家・天皇と宗教者との関係を規定した「教導職制」を定めたが、明治17年8月11日太政官布達第19号で教導職は廃止され、住職任免や教師の等級進退など全てを各宗派の管長に委任するとした。
この当時の尼僧数について、明治15年創刊の『日本帝國統計年鑑』から明治14年の状況を示す。尼僧住職数625人と非住職数506人の合計1131人が、明治14年末時点の尼僧数である。
浄土宗は明治20年7月に宗制で尼僧教育が定められ、翌21年に知恩院に尼衆教場が開校して仏教界で最初に宗派の尼僧教育の場が整備された。臨済宗は東海祖確尼が明治14年に岐阜に創設した「尼僧育才所」が、明治30年に宗派の尼衆学林として認められた。曹洞宗では明治35年に宗制で尼衆学林が制度化された後、私設も含めた四つの尼衆学林が富山、愛知、長野、新潟に次々に設立された。高野山修道院に尼僧科がおかれるのは大正13(1924)年6月であり、明治時代の真言宗には尼僧専門教育の場はなかったようである。
高等教育について、浄土宗では明治33年度私立浄土宗専門学院年末調査表に「本校ハ女子ノ入学ヲ許サス」とあることから、尼僧には尼衆教場以上の宗学の道は開かれていなかった。曹洞宗は、大正14年尼僧5人に駒澤大への入学が許可されたことが初である。
(1)古義大学林の開校
明治19(1886)年2月に真言宗宗制が改定され、明治19年5月1日高野山に古義大学林が開校、翌20年には東京音羽の護国寺境内に新義派の大学林が開設された。この宗制で、大学林の入学資格は教師試補以上、教師試補以上の者は住職であっても未交衆の場合は宗制上必ず古義、新義の大学林へ入学しなければならない、大学籍編入(入学)以上のものは住職になれるとされ、大学林への編入が住職資格取得条件となった。古義大学林の男僧用の学籍簿『従明治十九年五月至廿五年九月卅日大學籍』は5月から記入され、住職の編入者が多数記録されている。
(2)『尼僧近士學籍』の成立
『明教新誌』2005号掲載の明治19年5月1日開校時の古義大学林制規には尼僧に関する記載は見られないが、『明教新誌』2115号に明治19年11月17日付古義大學林所属寺院一般向け通知で、古義大学林編入手数料について「近士又は尼僧にて結縁入籍を願者も手数料金壹圓五捨銭を納めしむ」と掲載されており、ここで尼僧の編入が制度化されたことがわかる。
『尼僧近士學籍』には明治19年7月から33年8月までに49人が記載され、尼僧29人、近士5人、未記載15人である。尼僧29人のうち住職は7人、その他22人の内訳は徒弟19人、前住職1人、寄留1人、居住1人である。「近士」(近事)とは旧修験者のことである。
『尼僧近士學籍』では、明治19年7月24日に最初に編入した近士3人、明治19年11月4日編入の高尾妙円尼は、それぞれ別の紙に書かれたものが冒頭に貼られ、明治19年12月14日に編入した近士からは直接記入されている。尼僧29人の編入年は、明治19年1人、20年11人、21~25年8人、26~33年9人、と明治20年に集中している。明治20年の編入者のうち、確認ができた2人を次に紹介する。