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古義大学林の尼僧学籍簿について(2/2ページ)

尼僧史研究家 松山文佳氏

2018年6月20日

花淵明鏡尼は大阪・平野の長寶寺第36代住職。長寶寺は坂上田村麿が大同年中(806~810)に創建し、明治18(1885)年の第35代護心大姉までは主に坂上家の女子が住職に就任して浄土と真言の二宗兼学であったが、明鏡尼より真言宗となる。『長寶寺縁起』では明鏡尼は明治19年1月から在位とあるが、『尼僧近士學籍』では明治20年4月編入となっている。先代の護心大姉尼は明治18年12月13日に遷化しており、明鏡尼は住職資格を得るために古義大学林に編入した可能性が高い。

佐伯心随尼は、淡路島の東山寺を復興した初代住職。寺は弘仁10(819)年弘法大師開基とされ、行基作と伝えられる観音菩薩像を本尊とする。創建当時の伽藍は焼失し、弘安8(1285)年現在地に再建され寺領600石と栄えたが、江戸時代末には無住となり荒れ果てていた。『尼僧近士學籍』で、心随尼は明治20(1887)年9月9日住職で編入している。『東山寺誌』に東山寺は明治19年尼僧寺に認可されたとあるので、心随尼はその時に住職に任ぜられたが、交衆をしていなかったため大学林に編入したと考えられる。

以上のことから、古義大学林は明治19年5月1日開校時には尼僧の編入を予想しておらず、男僧用の学籍簿のみを用意していた。しかし、11月4日に高尾妙円尼の編入申請があり、いったん別の紙に記録した。その後、宗制にもとづき、住職で未交衆の場合や住職資格が必要になった尼僧に対応するため、大学林の尼僧編入を制度化して19年11月に手数料について通知し『尼僧近士學籍』を作成して記録を開始した。その際、別の紙に記載した尼僧1人を『尼僧近士學籍』に貼付した。そして翌20年に11人の尼僧が編入した、と推測される。

なお、『尼僧近士學籍』の最後の記載が明治33年8月であるのは、真言宗内部での争いの結果、明治34年に古義大学林から各宗派聯合大学林に変わり、学籍簿の使用を終了したためと考えられる。

(3)尼僧の古義大学林入学の実態

高野山は明治5年に女人禁制が解除されたが、女性居住の公認は明治38年6月で、明治32年までは月に1、2回ほど山内潜住の女性の取り締まりが行われていた。このような状況もあり、『尼僧近士學籍』記載の明治19年から33年までの高野山での尼僧居住実績は、現時点では見つかっていない。また、『明教新誌』には明治19年以降、年に何回か古義大学林の試験成績表が掲載されているが、『尼僧近士學籍』の尼僧名は見あたらない。古義大学林編入手数料通知の「近士又は尼僧にて結縁入籍を願う者」との表現から、大学林側は当初から尼僧には住職資格を得るための編入のみ認め、通学は想定していなかったと考えられる。これらのことから、尼僧が高野山に住み古義大学林で実際に勉強した可能性は非常に低い。

4.まとめ

明治時代の真言宗は、尼僧専門教育の面では他宗より遅れていた。一方、教育制度について、他宗は尼僧についての取り決めを設けていたが、真言宗は特に尼僧についての取り決めがないこともあって、制度上はほぼ男女平等であった。古義大学林は当初男僧の事のみを想定していたが、宗制上の都合で尼僧の入学も認めることにして『尼僧近士學籍』を作成した。その結果、古義大学林は制度的には他宗派に先駆けた高等教育の男女共学となったが、通学などの実態はともなっていなかったと筆者は考える。

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