近代仏教史における神智学(1/2ページ)
舞鶴工業高等専門学校教授 吉永進一氏
神智学というと、その創始者であるロシア人女性ヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831~91)が、大ヒットしたスマホゲームのキャラクターとして、あるいは宝塚版「ポーの一族」の登場人物として今では有名だそうである。それは結構なことだとしても、神智学協会が、交霊会や魔術を行う団体と同一視されている気がしないでもない。
神智学協会は三つの目的を掲げており、それらの一つには人間の潜在力の研究が挙げられてはいる。しかし、他の二つは、人種、信条、性別を越えた同胞愛の追求と、さまざまな宗教、哲学、科学の比較研究であり、実際、神智学協会の主たる活動は東洋宗教や神秘主義の学習会であった。オカルティズム的な世界観を前提とする、他宗教との交流のプラットフォームといった方が実情に近いかもしれない。
神智学協会は1875年、ニューヨークで、ブラヴァツキーとヘンリー・S・オルコット(1832~1907)を中心に設立された。1879年に創立者二人はインドに移り、その後、チェンナイ郊外のアディヤールに本部を構えると、急速にインド、ヨーロッパ、アメリカなどにロッジ(集会所)を増やしている。書簡と電信によって世界的なネットワークを築き、知識人、法律家、芸術家などが多く参加したことで、会員数に比べると社会的な影響力は大きいものがあった。
近年、神智学の学問的研究は進んでいる。宗教学では神智学を含めた西洋の秘教思想史研究全体が盛んになり、芸術学や文学研究では近代文化における神智学の影響が注目されている。また、政治学や南アジアの地域研究でも重要なテーマとなりつつある。
しかし、かつてはシリアスな研究対象ではないとされてきた。その理由の一つに東洋学者からの批判がある。マックス・ミュラーは、神智学は秘密仏教と称しているが、そんなものは存在しない、ブラヴァツキーのように原典も読めない素人には仏教はわからないと辛辣に批判している。
ただし、東洋学の批判対象は、現実のアジア仏教にも及んでおり、ミュラーは日本の阿弥陀信仰を堕落したものと批判し、日本が正しい仏教に戻るよう、余計なアドバイスを与えている。東洋学も神智学も、いわゆるオリエンタリズム的な偏見から脱することはできなかったかもしれないが、東洋学の独善性と比べれば、神智学は主体的、実践的な関心をもって、より開かれた態度で東洋宗教に接したことは大きな違いである。
これは仏教に限らない。神智学は、西洋社会における数少ない東洋宗教への入り口であった。東洋宗教は神智学を突破口として次第に受容されていき、それと同時に、西洋社会へ適応するために変容していった。禅、カバラ、ヨーガ、スーフィーなどが世界的に広まるに至ったのは神智学が介在していなければ不可能であったろう。
神智学と仏教の近代化も、ここ20年ほど研究されるようになっている。地域ごとに先行研究の例を挙げてみると、まずスリランカについての研究がある。スリランカでの神智学の功績は特に大きく、神智学協会会長のオルコット、その弟子ダルマパーラ(1864~1933)は、スリランカの仏教を復興させただけでなく、プロテスタンティズム的な倫理を織り込んで近代化させることに成功した。
この点についてはゴンブリッチ、オベーセーカラの古典的名著『スリランカの仏教』(法藏館、2002)がある。さらに杉本良男(国立民博)が精力的に神智学研究を進めており、杉本の編集した『国立民族学博物館研究報告』40巻2号(2015)は、カルムイク仏教からチベット仏教までを視野に収めた意欲的な内容となっている。
日本では事情が異なり、神智学の影響は表面的には1889(明治22)年のオルコット来日を頂点とする短期的なものではあったが、仏教復興を可視化させたことと、後世へとつながる国際化の種が蒔かれたことは重要な成果であった。これについては、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』(サンガ、2008)がオルコットの日本招聘に活躍した野口善四郎を狂言回しに、オルコット来日とその後の日本とアジア仏教の交流を描き出し、奥山直司(高野山大学)は「ランカーの八僧」(2004)以降、神智学と関わることの多い明治期の仏教留学生や海外渡航僧に関する詳細な研究を進めている。