近代仏教史における神智学(2/2ページ)
舞鶴工業高等専門学校教授 吉永進一氏
また神智学との接触を契機に開始された、日本仏教の最初の国際化の試み(最初の英字仏教紙The Bijou of Asiaの創刊、欧米での宣教活動)については、中西直樹・吉永進一『仏教国際ネットワークの源流―海外宣教会(1888年~1893年)の光と影―』(三人社、2015)がある。ロンドンでの宣教というグローバルな動きと、九州におけるローカルな仏教運動という、二つの視点から近代史の一側面を描き出した研究である。
アメリカについては、トマス・ツイードが、アメリカ人仏教シンパたち(その多くが神智学徒)を中心に据えてアメリカ仏教史を叙述した。従来、仏教専門家の歴史として語られてきた仏教史を、素人の仏教シンパを含めた、いわば民衆宗教的な視点から語り直したことは大きな転換であった。その主要な論考「秘教主義者、合理主義者、ロマン主義者」は、デヴィッド・マクマハン「仏教モダニズム」とともに末木他編『ブッダの変貌』(法藏館、2014)に抄訳されている。マクマハンの論考は、ツイードの研究がビクトリア朝のアメリカに限定されていたのに対して、現代の「仏教モダニズム」という、新たな形態の仏教(個人志向、瞑想重視など)の成立を論じたもので、そこにも神智学の影響は色濃い。
それではこのような神智学の影響力は、どこに由来するのだろうか。神智学運動を他のオカルト運動から区別し、その組織を支えていたのは、ブラヴァツキーの語ったマハトマ(聖者)の物語であろう。ヒマラヤに太古の知識を伝えるマハトマたちが隠れ住み、彼女に真の仏教を伝授し、今なお彼女と神智学協会を指導していると彼女は語り、その証拠として周辺に超自然現象が起きたとされる(詐術とも批判されたが)。
このように幾重にも神秘の重なった神智学の「物語」は、人々の東洋宗教への関心、特にチベット仏教への好意的な目をもたらしたのは事実である。実は日本仏教についても同様の物語が存在している。山伏がそうであった。
山伏について、ブラヴァツキーは、主著『秘密の教義』(1888)や『夢魔物語』(原著、1892)所収の小説「不思議な人生」などで語っている。彼らは僧侶兼戦士の苦行者たちで、その神秘的な結社の本拠は京都近くにあり、病気治しで知られると書かれている。要するにマハトマ伝説をヒマラヤから京都に移したものであったが、かなりの影響力があった。
1893年、2度目に来日したダルマパーラは、ブラヴァツキーの言うように、日本では山伏がいまだにオカルティズムを研究していると神智学雑誌に伝えている。同じ頃、カリフォルニアに留学していた松井宥粲という真言宗僧侶(後の善通寺派管長)は、アメリカ人仏教者の集まりで、山伏が清浄で禁欲的な生活をし、その符呪はどのような病気も治すとアメリカ人に絶賛されていたと真言宗の雑誌に発表している。さらに40年ほど時代を下った後でさえ、この物語は生きていて、戦前の数少ない欧米人禅者の一人であったミリアム・サラナブは山伏伝説に憧れて訪日した。
こうした日本仏教のイメージに対して、フェノロサやビゲローに戒を授けた桜井敬徳は、「どうもあの人々には困る、何時神通力が得られるかと言ふことばかりを頻りに言ふ、何せ支那や、日本の佛教は、成るべく、さういふ方を遠かる様に進んで来たもので、途が違ふのである」と述懐したという(『禅宗』190号、1911年1月)。確かにその通りであり、こうしたすれ違いは、その後も日本仏教のグローバル化につきまとう。しかし、そのすれ違いがなければ、交流と対話は生じなかった。そして、それをもたらしたのは、人々の潜在的な東への憧れを形にし、物語に力を与えたブラヴァツキーの大きな功績であった。