證空の現生往生思想(1/2ページ)
親鸞仏教センター嘱託研究員 中村玲太氏
大谷大名誉教授の小谷信千代氏が『真宗の往生論―親鸞は「現世往生」を説いたか―』(法藏館、2015年)等の一連の著作を上梓し、今改めて「往生」とは何かが問われている。ここで「親鸞が」説いた往生とは何かが文献の読み方などをめぐって問われているわけであるが、それだけではなく「現世往生」と言われるものが浄土教の思想史的流れにおいては極めて問題の多い思想であることが指摘されている。
ただ、小谷氏はいわゆる「現世往生」的な言説を近代仏教が生み出した異物だとみなして論じているが、果たしてそうか。
「仏を見る」ということから往生を現生の事実と捉えようとするのが、法然の上足で、親鸞の兄弟子に当たる浄土宗西山派の祖・證空(1177~1247)である。こうしたことは以前から論じられてきており、往生を現生の事実とする思想は證空の言葉によって確認できる。しかし、そこにはとどまらないのも證空の往生観である。證空の思想、そしてその思想が登場する背景について改めて確認しながら小谷氏の問題提起について考えてみたい。
證空は阿弥陀仏を「見る」という「見仏」と「往生」とを言葉が違うだけでその意味することは同じだと考え、「見仏即往生」だとする(「見弥陀、といは、願に乗じて往生すべき謂立てば、見る理あり。されば、見は即往生、往生即ち見と云ふ事を顕はすなり」、『般舟讃自筆鈔』巻三)。「見仏即往生」だけではなく、さらに「往生即見仏」と続けているところから見て、「見仏」と「往生」が同時の事態を示すことだと證空が了解していたことは明らかである。
ここで言う「見る」とは、肉眼で実体的な何かを見ることではなく、他力信心と意味するところは同じである。これについては後に述べたい。
さて、證空は「見仏即往生」「往生即見仏」と言明するが、「見仏」と「往生」を結びつける思想自体は特に新しいものではない。それがどう連関するのかについてはいくつかの類型があるが、證空においては確認したように「見仏」と「往生」は同時の事態であり、「見仏」と「往生」を別の段階として考えるような理解ではない。もし弥陀を見るという事態があるとすれば、それは浄土において見ることを意味すると考えていたのであろう(これも伝統的な解釈の範疇である)。
この「見仏」ということが現生においてあると證空は理解している(「往生を決定するのみにあらず、今生予て依正二報の功徳を見ると云ふ事を釈するなり」、『般舟讃自筆鈔』巻四)。證空は他力信心の確立に依って現生において往生が「決定」することのみに意義を見いだすのではなく、往生が決定している以上、そこには弥陀(あるいは「依正二報」=弥陀と浄土)を「見る」ということがあるとする。
「見仏」が現生にあると主張する以上、それは「往生」を現生の事実として論ずるものだと言い得る。故に、念仏即往生なのであり、この念仏の外に「臨終」や「来迎」の事態はない(『述成』)、とするのが證空の思想の要である。
往生を現生での事実と論ずることは、「厭離穢土」とは対極的な、極めて現実肯定的な思想にも見える。小谷氏は、「そもそも現世で往生するとは如何なることか。浄土の風を感じることだなどと言う人がいる。それは聖道門の人々が『自性の弥陀、唯心の浄土』と言い、『この心を離れて別に浄土があると思うのは迷いである』などと言うのと大差はない」(前掲書「はじめに」、ⅱページ)と問題提起するが、證空の思想も「聖道門的」なのであろうか。これについて考えてみたい。
まず基本的な理解であるが、法然の批判する『真如観』(いわゆる天台本覚思想の代表的文献)等は六道の別はあったとしてもすべて真如にほかならない、そうした真如の道理を知れよと教えていた。
こうした先行する思想とは相反して、證空は六道は六道であって「皆浄」、一切が清浄な世界だなどということはない、と明確に述べている(『般舟讃自筆鈔』巻五)。