第7回中日仏学会議に参加して(1/2ページ)
創価大教授 菅野博史氏
「第7回中日仏学会議」が昨年10月28、29日に、中国山東省煙台市で開催された。慈覚大師円仁がこの地を訪れたのは、唐朝の開成5(840)年であった。
中国人民大に2000年に創設された「仏教と宗教学理論研究所」は04年に「中日仏学会議」の開催をはじめた。今年は、日中国交回復45周年にあたり、いくつかの記念行事も開かれたが、5年前の40周年の時には、日中の政治的関係が悪化し、記念式典は行われなかった。私たちの中日仏学会議もちょうど第5回が予定されていたが、急遽取りやめとなった。その後、この会議の重要性に鑑み、中国、日本の双方の努力によって翌年開催された。これによって日中の仏教学術交流が再び継続され、今回の第7回を迎えることができた。
今回の総合テーマは「『般若経』と東アジア仏教」であり、日本と中国からそれぞれ5人の学者が研究発表をした。まず日本側の発表は、菅野「吉蔵『大品経玄意』の研究序説」、蓑輪顕量(東京大教授)「日本の三論宗について」、伊吹敦(東洋大教授)「初期禅宗と『般若経』」、渡辺章悟(東洋大教授)「『般若経』の意図するもの」、奥野光賢(駒澤大教授)「現代日本における中国三論宗の研究」であった。
中国側の発表は、董群(東南大教授)「吉蔵『金剛般若疏』研究」、周広栄(中国社会科学院世界宗教研究所研究員)「般若経典における梵語声字の形態と功徳に関する試論」、兪長海(西蔵民族大講師)「初章と三論宗思想の基盤」、烏達木(中央民族大講師)「トド文『八千頌般若経』について」、張文良(中国人民大教授)「中国華厳教学における般若系経典」である。
今回の会議は、合盧寺の後援を受けて開催された。煙台市福山区の南部の合盧山にある寺院で、唐朝の開元年間(713~741)に創建された古刹であるが、近代になって衰亡した。ところが、近年の中国仏教界の隆盛の波を受けて、2010年から重建が開始され、今も盛んに建設中である。私自身は、昨年の夏、この会議の準備のために訪れたことがあり、今回は2度目の訪問であった。
中国仏教史における『般若経』の受容は、支婁迦讖の『道行般若経』の漢訳に始まる。その後、朱士行(生没年未詳)は、洛陽において『道行般若経』(小品系)を講義していたが、訳文が簡略で、意義が十分に理解できなかった。彼は『般若経』を大乗の中心経典であると考え、どうしても、その完全な原典を中国にもたらそうと決意し、魏の甘露5(260)年に雍州を出発して于闐(コータン)に行った。朱士行は幸いに『放光般若経』(大品系)の原典を入手し、小乗仏教を奉じる者たちの妨害に遭いながらも、西晋の太康3(282)年、弟子にその原典を洛陽に持ち帰らせた。
洛陽では、元康元(291)年に無羅沙と竺叔蘭によって『放光般若経』として訳された。一方、竺法護(239~316)が同本異訳の『光讃般若経』を訳した(286年)。支道林(314~366)の『大小品対比要抄序』(『出三蔵記集』巻第八所収)は、大品系と小品系の『般若経』の思想的比較を試みたものである。
道安(312~385)は、安世高を尊敬し、彼の漢訳経典に注を執筆するとともに、『般若経』研究にも熱心で、いくつかの注を執筆した。残念ながら、『人本欲生経註』以外は現存していない。年2回の『放光般若経』講説を継続し、その異訳『光讃般若経』を得てからは、両者の比較研究を試みた。しかし、翻訳の質の問題に悩んでいた道安は、亀茲国の鳩摩羅什(344~413/350~409)を中国に招聘することを前秦王の苻堅(357~385在位)に提案した。