東寺国宝御影堂の修理と弘法大師信仰(1/2ページ)
東寺文化財保護課長 新見康子氏
東寺では、2023年の立教開宗壱千二百年慶讃大法会にむけて、2010年度より境内の史跡整備事業を行っている。さらに、15年度には御影堂(国宝)の屋根葺き替え工事に着手した。現在は、素屋根をかけ、修理工事が進められている。この御影堂の修理工事の開始にあたり、その修理の歴史と弘法大師信仰について述べておきたいと思う。
東寺境内西側には、築地塀で囲まれた西院という区画がある。御影堂は、その中心にある檜皮葺きの美しい寝殿造りの建物である。弘法大師空海の住坊といわれる雰囲気を今に伝えている。鎌倉時代、大仏師運慶の子康勝によって弘法大師坐像(国宝)がつくられ、1240(延応2)年3月21日、秘仏の不動明王坐像(国宝)の背面に移されて、御影供が行われた。
これが毎月21日の「弘法さん」の始まりである。この御影供の開始にあたっては、後白河法皇の第六皇女宣陽門院覲子内親王による、仏像や『宋版一切経』などの経典類、経済的な援助として庄園の寄進があった。以後、南北朝時代にかけて、東寺の法会は充実し、寺僧組織も廿一口方や鎮守八幡宮方、学衆方などが形成されて発展した。こうして、中世の東寺は、御影堂を中心とした宗教活動によって興隆していくのである。
御影堂は、その長い歴史の中でただ一度火災に遭っている。1379(康暦元)年、西僧坊に泊まっていた客僧の火の不始末によって出火し、御影堂をはじめ僧坊・小子房など、西院の多くの建物が焼失した。火事に際しては、寺僧らが走り集まって必死の救出作業を行い、弘法大師坐像や秘仏の不動明王坐像をはじめ、堂内の本尊類・仏具類・古文書・経典類などのほとんどを持ち出した。
翌80(康暦2)年に御影堂(後堂)が再建され、90(明徳元)年に北面(前堂・中門)を増築した。これが現在の御影堂である。
御影堂の屋根は檜皮葺きであるため、30~50年おきに何度も葺き替えを行わなければならない。戦後は、1955年に解体修理工事を行い、79年と83年に屋根の葺き替え工事を行っている。近年は雨漏りなどがみられ、床板や蔀戸などの建具類に傷みが目立つようになった。そこで、2015~19年度まで、総事業費約4億円(予定)をかけて、国庫補助事業として屋根の葺き替えなどの修理工事を行うこととなった。
御影堂の小屋裏には、江戸時代の棟札が多く残されている。これらの棟札の年号をみると、「寛永13(1636)年、寛文12(1672)年、享保17(1732)年、明和9(1772)年、明治16(1883)年、大正9(1920)年」となっている。
年代に注目すると、50年ごとに行われる弘法大師遠忌を節目として、御影堂の屋根の葺き替えや西院の大きな修理を行ってきたことがわかる。また、門徒勧進だけではなく、天皇・朝廷・江戸幕府などの庇護や、仁和寺・大覚寺・醍醐寺などの門跡寺院による援助があったことが記されている。特に1672(寛文12)年の修理では、御影堂の屋根葺き替えとともに、生身供をつくる御供所などを新たに建てて、西院全体の大規模な造営工事を行った。この修理によって、御影堂は現状のように堂内を改め、現在の西院の景観が形づくられたのである。
東寺は、弘法大師空海に下賜されて以来、真言宗の根本道場としての道を歩んできた。東寺の歴史書『東宝記』にある「伽藍興復すれば天下興復し、伽藍衰弊すれば天下衰弊す」ということばに示されるように、東寺は歴代の天皇や武家などの権力者による保護をうけながら、その伽藍を維持してきたのである。そして、御影堂では弘法大師遠忌の数年前から屋根の葺き替えや修理を行い、新しく再生した御影堂の北面において庭儀曼荼羅供などが盛大に行われた。