公開シンポ「死刑のある国ニッポン」から(1/2ページ)
真宗大谷派北海道教区教化本部死刑制度問題班前班長 宮本尊文氏
真宗大谷派北海道教区教化本部死刑制度問題班主催の公開シンポジウム「死刑のある国ニッポン」が、2016年12月7日、札幌市中央区の大谷派札幌別院で開催された。
パネリストに死刑廃止論者の森達也氏(作家・映画監督)、存置論者の藤井誠二氏(ノンフィクション作家)、そして宗教者として当派僧侶の楠信生氏(帯広市・幸福寺住職)を招き、当班班長であった私がコーディネーターを務め、150人を超える参加者に対しパネルディスカッションが行われた。
森氏は相模原事件を例に出し、「事件後、インターネット上で、加害者が犯行前に書いた『障害者に生きる価値はない、社会のために殺さなければいけない』といった内容の手紙に賛同する声が相当数上がった。その現象に対し、メディアは『殺されてよいいのちなんかない』『いのちは選別されるべきではない』『いのちは尊いんだ』として、加害者や賛同者の優生思想論に対し否定的な報道を行った」と述べた。
森氏はその報道内容に同意するとともに、メディアや世論に対し「じゃあ、なぜ死刑から目を背けるんだ」「死刑は殺されてよいいのちを選別するものだ」と、その矛盾を指摘し、さらに「論理的にはいのちを奪う死刑制度は廃止されるべきだ。しかし、多くの人は感情的に死刑を求める」「僕は感情的に考えても、いま生きている人を殺したくないと思う。感情的にも論理的にも考えたうえで死刑は廃止すべきである」と自らの見解を語った。
藤井氏はもともと死刑廃止の立場にいた。しかし、「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんをはじめ、多くの犯罪被害者遺族を取材する過程において、死刑制度が抱える数々の問題点(冤罪や非公開性)を指摘しつつも「殺された側」の痛みから、現在は存置を論じている。
藤井氏は「奪われるいのちは死刑で奪われるいのちだけではない。死刑を課された人によって無残にも奪われた全く罪のないいのちが死刑囚の何倍もある。そういったいのちと私は向き合ってきた」と自らの経験を踏まえ、態度を表明した。
また「遺族が、加害者から反省の言葉を聞くことなく、悲嘆に暮れ、生きる希望を失い、絶望の淵に生きている姿をこれまでたくさん見てきた中で、『感情として』死刑廃止は時期尚早であると考える。今は死刑を廃止すべきではない。数多の問題を残して廃止をするということは問題である」と犯罪被害後の遺族が課される生々しく痛ましい現実を語り、死刑廃止に対し慎重な姿勢を見せ、現状での存置を呼びかけた。
楠氏は宗教者としての立場から、釈尊の「すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」という経典の一節を紹介し、「人を殺害したものは赦されざる罪を犯した。しかし、その罪に対する罰として、死刑という手段を用いる権利は人間にはないと考える。もちろん、大切な人を無残にも殺された被害者遺族にとって、加害者に対し応報的な感情を持つことは当然である。だが、刑罰として死刑が選択されることはあってはならないと思っている」と、被害者遺族の応報的感情を理解しつつも、いのちの存続の有無を決定する権利は人間にはないとして、制度としての死刑の見直しを論じた。
「死刑制度」を論ずるにあたり、そこには様々な立場の人間がいる。存置論者、廃止論者、そして無関心者。私もこの問題に携わるまでは、紛れもない「無関心者」であった。
無関心なゆえに、関わること、考えることをせず、一部の感情的世論に迎合し、殺人という罪に対し、死刑という罰が課せられるという、甚だ理にかなったルールだと観念的に思っていた。
私たち死刑制度問題班はこれまで、東京拘置所にて死刑未決囚・確定囚(処遇確定前)との面会を度々行ってきた。初めて面会する拘留者の関わった事件は事前にインターネットで調べるのだが、当初、そこから得る情報と、「殺人者」=「異常者」とカテゴリー化していた私の偏った感覚は、私の中の「殺人者」に対する異常性・危険性を増幅させた。しかし、そこで出遇った人たちは、私と何も変わらない「ひとりの人間」であった。それぞれに各別な背景を持つ「ひとりの人間」がそこで生きていた。
殺人という行為は決して赦されるべきではない。しかし、死刑は、殺人を行う制度であり、新たな悲しみや痛みを生み出す。