日露戦争におけるキリスト教徒の葛藤 ― 近代日本の宗教≪16≫(2/2ページ)
桃山学院大准教授 石川明人氏
内村は、聖書を引用して戦争を正当化する牧師たちを厳しく批判したが、多くのプロテスタントの牧師たちは日露戦争に協力的であった。新島襄の門下である海老名弾正は、当時の牧師のなかでも特に日露戦争を積極的に肯定したことで知られている。
同じく牧師である本多庸一と小崎弘道は、軍隊へ「慰問使」を送ることなどについて軍部と交渉し、軍人向け小冊子の配布、募金活動にも協力した。本多庸一と井深梶之助は、日本が正義の戦争をしているということを訴えるために、わざわざ欧米にまで行った。
小崎弘道は、全国宗教家大会で「この戦争は、人種の戦争でも宗教の戦争でもなく、ロシアが代表する16世紀の文明と、日本が代表する20世紀の文明との戦争である」と述べた。こうした小崎の発言を伝え聞いたニコライは、日記に「ロシア罵倒の熱心においてとりわけ際立つのはプロテスタントのコザキ(小崎)である」と書いており、複雑な思いを抱いていたことがうかがえる。
当時、日本国内のプロテスタント宣教師のなかにはロシアに対する嫌悪と軽蔑をあらわにする者も多く、ニコライはそれに強い反発を感じていた。ニコライは「プロテスタントの宣教師たちほど、ロシアを憎み、ロシアの不幸を願っている者はいない」とも書いている。傍目には同じキリスト教徒のあいだでも、当時の内実はわりと複雑だったのである。
ところで、日露戦争時からは兵士たちに「慰問袋」が送られるようになった。慰問袋の誕生については諸説あるようだが、最も早く始めたうちの一つは、現在もあるキリスト教の婦人団体「矯風会」である。矯風会には早くから軍人課があり、軍人にキリスト教および禁酒主義を広め、兵士たちを慰藉する活動をしていた。日露戦争から慰問袋を送るようになったきっかけは、アメリカ矯風会の軍人課が米西戦争の時にこうしたものを送ったことを知ったためだったようである。なお、「慰問袋」という日本語の名称は、矯風会の機関紙『婦人新報』の編集者である山田弥彦が、自分が名付け親だと自負している。
また当時、牧師たちの戦争協力があった一方で、同じキリスト教徒のなかから日本で最初の良心的兵役拒否者も出ている。矢部喜好という人物である。彼は戦争がはじまるとすぐに召集されたのだが、入隊の前夜に連隊長宅を訪れて「自分は徴兵を拒否する者ではないが、神の律法を厳守する立場から、敵を殺すことはできない」と申し出た。当時の日本ではそんなことを言い出す者はいなかったので、連隊長は怒るより先に呆気にとられたようである。
結果的に矢部は禁固2カ月の刑を受け、その後は上官の説得などにより傷病兵の世話をする看護卒補充兵となった。戦後、彼はアメリカで神学などを学び、同胞教会に転じ、帰国後は牧師として琵琶湖周辺で伝道に従事した。平和論者としての運動だけでなく、子供や女性の教育、フィリピンに日本人教会を設立するなど、多彩な活動をした。
このように、後の世界大戦の前段階となる日露戦争においても、宗教家はさまざまな形で戦争に協力し、または戦争に反対し、あるいは迫害を受けながら、さまざまな葛藤のなかを生き抜いてきた。同じ宗教、同じ信仰をもっていても、人格や生活環境が異なれば日々の佇まいにも違いが生まれるが、「戦争」という巨大な社会的事象に対する姿勢も実際にはさまざまであった。
こうしたことは、あらためて私たちに、信仰とは何か、平和とは何か、という問いを考えるきっかけになるであろう。