大乗仏教における「空性」と「智慧の究極性」という条件(1/2ページ)
臨済宗大徳寺派福聚院住職・私塾明知林塾頭 佐藤宏宗氏
我が愛弟子よ、移ろう事象の中にあって汝が生涯で為すべきことは「タットゥヴァ」を知ること、そして、その智そのものとして絶え間なく歩むこと、ただそれのみだ。
これが、仏教を含むインド諸学派の「ダルシャナ」を師資相承として指導下さった我が師、ズハァー先生が私に授けられたインド思想の根本である。この「タットゥヴァ」が、「自性」、即ち、「あるものあって、そのあるものをありありとそのものたらしめる根拠」であり、所謂、「普遍」、即ち、「属性」のことである。通常、「真実」「実性」云々と表現されるが、正確には「あるもの」、即ち、「この現象世界そのもの」を「それ」(タド)たらしめる「それ性」(タットゥヴァ)のことである。この「それ性」と同種の概念が「スヴァバァーヴァ」、即ち、「自性」である。
例えば、我々が普段認識している「牛」と称される存在を「牛たらしめている根拠」が、「牛性」という「自性」である。実在論者は、この「それ性」が、この現象世界に唯一普遍なものとして実在すると考え、他方、観念論者はこれを単に概念構想のもの(言語世界の広がり)として捉える。この「それ性」、即ち、「自性」は古来インド文法学では「言葉の発働根拠」(プラヴリッティニミッタ)として、また、インド大乗仏教では「プラパンチャ」(戯論:言葉の広がり)、即ち、「カルパナー」(分別:概念構想)として理解される。いずれの立場であれ、この「それ性」をめぐりつつ、外界世界に、あるいは内界世界に実在するか否か分かり得ない行為主体である「アハン」、即ち、「わたくし」というものを含むこの「現象世界」をつくりあげてしまう認識の枠組み(絡繰り)をひも解くということが「ダルシャナ」、即ち、「この現象世界を我々の経験知と相矛盾することなく観てとるはたらき」ということなのである。
中観派の学匠、龍樹(2~3世紀頃)の『中論』は般若思想の中心を、「空性」(シューニャター)という概念手段を条件として、「菩薩行」(ボーディチャルヤー)というインド思想の根幹をなす「カルマヨーガ」に置いている。しかし、この「空性」とそれに匹敵する概念とが種々の般若経典類や論書の中で厳密に用いられ、インド大乗仏教における「カルマヨーガ」である「菩薩行」が伝承されているにもかかわらず、一般にこの基本思想が理解されているとは言い難い。
我々は、龍樹が掲げる「空性」という概念を確認し、「般若波羅蜜多」、即ち、「智慧の究極性」という術語概念とともに般若思想の基調となる「カルマヨーガ」である「菩薩行」そのものとして平常に歩むために、インド大乗仏教のみならず、インド思想の基本的立場を正確に踏襲するスタンスを持たねばならない。龍樹は『中論』第24章第18偈で次のように言う。
およそ縁って生ずるもの、それを我々は空性と呼ぶ。それは〔対象を言葉の世界に〕引き寄せて知らしめるものであり、中道である。
ここで彼は明確にすべての現象世界は「縁って生ずること(もの)」(プラティートゥヤサンウトゥパーダ)であるとし、そのことを「空性」と称し、それはあくまでもこの現象世界は「言語世界という場」でのみ可能な認識対象であることを我々に「知識せしめる」ための言語表現としての「条件」としている。即ち、「空性」とは、認識対象が、外界世界や内界世界に実在するか否かということは絶対的に決定不可能であるが、その対象となるものをいったん「言葉の世界に引き込んで、知らしめるもの」に他ならず、これは人間が言葉の世界を逸脱した存在ではあり得ないという自覚を促すためのある種の「方便」=「手段」なのである。
簡潔に言えば、「空性」とは、我々が認識するこの現象世界は「実在としての言葉の発働根拠を有さない」、つまり「ニフスヴァバァーヴァ」(無自性)という条件のもとでの世界認識にすぎないという絡繰りをひも解く「手段」の言語表現である。中観派の思考の基軸となる「空性」は、実在論者が掲げる「非存在」なるものを「非存在たらしめる根拠」としてこの宇宙に恒久的に実在する「非存在性」(ナースティトゥヴァ)のような「自性」とは全く異なる概念なのである。