大乗仏教における「空性」と「智慧の究極性」という条件(2/2ページ)
臨済宗大徳寺派福聚院住職・私塾明知林塾頭 佐藤宏宗氏
中観派が現象世界を把握する認識方法を自派理論として表述する場合には、必ず「空性という条件では」(シューニャターヤーム)という「処格」表現をとるのに対して、実在論者たちの世界展開理論を表述する場合には、例外なく、「自性の実在に基づいて」(スヴァバァーヴェーナ)という「具格」表現、あるいは「自性の実在が根拠となり」(スヴァバァーヴァタス)という「奪格」派生の不変化辞表現を用いる。中観派は、実在論者たちが認める普遍としての「言葉の発働根拠」なる「自性」の実在に基づく現象世界認識を承認せず、あくまでも「空性という条件のもとで」、即ち、「言葉の世界に引き込んで」のみ現象世界認識が可能だとし、「空性」という概念はこの宇宙を貫く絶対真理とは何ら無関係なものだという立場をとる。当然、中観派が承認する「縁起」は言葉の世界という枠組みでの世界認識の「条件」であり、部派仏教等が掲げる実在論的な因果関係としてのそれとは異なる。何故ならば、実在論の土俵では絶対に「結果性」や「原因性」という「自性」の実在に基づく世界認識理論を避けられないからである。
この条件としての「空性」と同じ概念表現として理解可能なのが、『般若心経』等に見られる「智慧の究極性という条件では」(プラギャーパーラミターヤーム)という「処格」表現である。我々の存在を含むこの現象世界を如実に把握するためには、「智慧の究極性という実在に基づいて」(プラギャーパーラミタヤー、あるいは、プラギャーパーラミトゥヴェーナ)というように「言葉の発働根拠」なる「自性」、即ち、普遍的実在として理解される「智慧の究極性」の「具格」表現を用いる世界認識論理を構築せず、「智慧の究極性において」=「智慧の究極性という条件付けで」という概念がその理論構築の基礎となることは明白である。
この「智慧の究極性」とは、周知の通り「三昧」(サマーディ)であり、インド思想では「ヨーガ」と等値される。この「三昧」は、『中論』の註釈にも引用されるように、「無相」(アニミッタ)なるもの、即ち、「実在としての言葉の発働根拠を有さない」、つまり「無自性」ということである。龍樹にとっては、これは「縁起」であり「空性」に他ならない。これらを踏まえて『般若心経』では、この現象世界を如実にすでに観察した者、即ち、自在なる者という菩薩が、深い「智慧の究極性」という条件のもとに、現象世界そのものである「五蘊」(色、受、想、行、識)は、それぞれの自性(色性、受性、想性、行性、識性)が根拠となり実在するのではなく、自性を欠くものという条件付けで承認可能なものにすぎないと自覚することが描写される。
「色即是空、空即是色」とは、「色は、空性、即ち、普遍なる色性の実在が根拠となり、認識されるものではなく縁って生ずるものであり、空性、即ち、縁って生ずるものという条件付けでのみ承認可能なものが、色なのである」ということに他ならない。「智慧の究極性」とは、人間は言葉の世界を逸脱したものではないという自覚を促す「手段」であることを意味する。
ヨーガ思想では、これは人間が自らのリミットを自覚する「三昧」、即ち、「ヨーガ」という「手段」として理解される。これら「手段」は、あくまでも「条件」であり、決して、崇高なる絶対的真理として妄想される「悟り」という神秘的対象ではあり得ず、我々の存在を含むこの現象世界を如実に把握する智慧そのものなのである。