宗門系学校誕生の近代史 ― 近代日本の宗教≪13≫(2/2ページ)
田園調布学園大助教 江島尚俊氏
ただし、内的かつ外的な要因を背景に僧侶養成機関は、公的認可を求めて徐々に学校制度に接近していく。内的要因とは、仏教者側の「普通学」への関心増である。
教団ごとにスピードの違いはあるものの、宗門系学校では「普通学」が導入されていった。「普通学」とは世間一般の学校で教授されていた科目を指し、今でいうと国語や数学、地理といった科目群に値する。ただし、「普通学」導入は伝統教学や宗学の科目削減を必然としたため、保守層からの批判が根強かった。
しかし、明治28年の内務省訓令第九号によって「普通学」導入の流れは決定づけられる。神官僧侶たる者は尋常中学校以上の学識を具備するよう指示されたのであった。この訓令は外的要因として機能し、各宗門系学校ではカリキュラム改革が実施されていくこととなる。
無論、この段階でも宗門系学校を所管するのは正式には内務省であり、学校制度上では各種学校扱いであった。しかし、文部省が定めるカリキュラムを徐々に取り入れ、かつ施設や運営体制も充実させてゆき、宗門系学校はいわゆる学校としての体裁を徐々に整えていった。
一方、徴兵令との関わりも外的要因の一つとして見逃してはならない。明治22年に徴兵令が改正され、中学校程度以上の私立学校に在学する学生にも徴兵猶予の特典が認められた。それ以前は官立学校のみに特典が認められていたことから、私立学校は常に学生流出に伴う経営難に苦慮していた。
待望していた改正を機に、私立学校は徴兵猶予認定を得るべく、自校のカリキュラムや組織体制を官立のそれに寄せてゆき続々と認定申請を行った。無論、宗門系学校でも他の私立学校と同様の動きをみせることとなった。
そして、いよいよⒸへの移行である。Ⓒとは文部省が所管する領域であり、宗門系学校はこの時期以降に文部省によって正式に学校として認可されていく。その際の法的根拠となったのが、明治32年8月に勅令公布された私立学校令である。
当時の教育行政においては、確かに私立学校という教育機関は不可欠と目されていた。しかし一方で、増加し続ける私立学校の管理方法が課題となっていた。そこで私立学校全体を包括的に所管していくための法令が明治20年代半ばより模索され、その結果、私立学校令が公布される。
なお、同令とともに発せられたのが、全ての学校において宗教教育を禁止した文部省訓令第十二号である。この訓令は、本来的にはキリスト教系学校対策を企図したものであったが、それのみを狙い撃ちすることは外交上不可能であったため、全学校を対象に宗教教育を禁止したのであった。
無論、これは文部省認可の学校において宗教教育を禁止したのであって、認可不要の学校においては宗教教育を実施してもよかった。ただし、その場合は私立学校令に認可されず各種学校扱いを受けることとなる。その学校を卒業しても学歴は得られず、また、高度な教育を教授していたとしても徴兵猶予特典も得られない。
そこで実際には、多くの私立学校が同令認可および徴兵猶予特典の獲得を目的に、同令に定められた内容に基づき組織を整備し、カリキュラムを改変していった。宗門系学校も同様であった。
私立学校令認可を受けた宗門系学校が全体としてどの程度存在したのか、現段階では分かっていない。ただし、中学校程度以上の宗門系学校であれば、明治年間において延べ41校の学校が私立学校認可を受け徴兵猶予特典を得たことが判明している(この数は統廃合や再認可等の重複を含む)。
大正期になると、それらの中から宗門系大学への昇格を遂げていく学校が出てくることとなるのであるが、残念ながらそれは字数の制限があり論じることはできない。私立学校→専門学校→大学という階梯を宗門系学校は如何にして昇っていったのか。もし機会があれば、それの実態についても論じてみたい。