宗門系学校誕生の近代史 ― 近代日本の宗教≪13≫(1/2ページ)
田園調布学園大助教 江島尚俊氏
宗門系学校とは学校なのか、宗教施設なのか? この問いが、明治10年代から20年代にかけての時期に行政上で問題となっていた。そもそも学校とは、文部省(当時)が所管して初めて正式な学校となり得るが、宗門系学校が正式に同省所管となっていくのは明治32年8月以降のこと。それ以前は、教部省(後に内務省)の所管であった。
このことが意味するのは、当時の行政上では宗門系学校は仏教教団の一部に位置づけられ、学校とはみなされていなかったことである。これまで宗門系学校の近代史といえば、学校制度上の教育機関として記述されることがほとんどであった。しかし、それでは宗教制度上における宗門系学校という側面を見失ってしまう。
そこで本稿では、明治政府が構築した学校制度と宗教制度の視点から宗門系学校誕生を論じていきたいと考えている。以下では、誕生までのプロセスを分かりやすく説明するために、
Ⓐ明治初期~:大教院制度・教導職制度上での僧侶養成機関
Ⓑ明治10年前後~:宗門系の各種学校=僧侶養成機関
Ⓒ明治32年~:宗門系学校
という三つの区分を用意した。この区分は、行政所管上からみた宗門系学校の歴史区分であるが、これに準じて論じることとする。
まずⒶについて触れていこう。Ⓐとは、教部省(後に内務省)の所管領域において存在していた僧侶養成機関のことを意味する。大教院制度(明治6年)および教導職制度(同5年)は教部省時代に創設された宗教制度であり、前者は宗教制度のハード面(宗教教団体制)を、後者はソフト面(人材の育成・管理)を担う制度であった。
中央に大教院、地方に中教院・小教院を創設せしめ、神官僧侶らを教導職に任じ国民教化を担わせたのである。重要なのは各教院が国民教化事業とともに対教導職教育および養成の役割も果たしていた点である。
教導職制度が発足した同年、教部省は「教導職試補」という階位以上でなければ住職たり得ず、と布告している。この布告によって仏教教団はその階位を授与するために対僧侶教育を実施せざるを得なくなった。
明治8年に大教院制度は崩壊するが、教導職制度は明治17年まで存続している。その間、仏教界では教団体制の再編とともに、近世期とは異なった僧侶養成機関を設置していったのであった。例えば、大正期に宗門系大学を設置する8宗派では、明治10年代後半までに、東京または本山所在地において対僧侶教育の中核となる上級の養成機関を、地方において支校や支所といった養成機関を設置している。
後々にこれらが統廃合を経て宗門系大学、宗門系学校へと発展していく。近世期の学林や檀林は教団自治に根ざした養成機関と言えるが、明治期のそれは大きく異なっていた。国家の急進的な宗教政策を背景に新設された養成機関だったのである。宗門系学校の近代史とは、当時の宗教制度の枠組み、つまりⒶの中でスタートしたのだった。
次に、Ⓑに触れていこう。Ⓑとは、内務省と文部省の間で揺れ動く組織、内務省にとっては僧侶養成機関、文部省にとっては各種学校(=教育行政上では非正規の学校)を意味する。
明治10年代後半までに各教団で構想された全国規模での僧侶養成構想は、明治20年代半ばになると縮小されていった。各教団ともに最上位の中核校といくつかの支校・支所を残した上で、それらの充実を図るようになったのである。
例えば、明治27年・真宗大谷派では大学寮1校・中学寮5校にという現実的な校数に落ち着いている。浄土宗においては当時の学校制度に倣った教校制度を明治31年に発足させている。なお、先述したように教導職制度は明治17年に廃止されたため、Ⓐにおいて創設された僧侶養成機関は公的制度の後ろ盾を失ってしまった。