宗教は国家を超えることができるのか ― 近代日本の宗教≪10≫(1/2ページ)
同志社大教授 原誠氏
周知のように民族宗教は特定の民族において、地縁や血縁を同じくするなかで成立して存在してきた。一般的にはユダヤ教、ヒンドゥー教、神道などがこれにあたる。これに対して世界宗教はこの民族宗教の思想的革新運動としてイエス、釈迦、マホメットなどの創唱者の教えや人格を中心として、偏狭な民族主義を超える内容を提示して成立した。
民族宗教が民族や国家と不可分の関係のなかにあったのに対して、世界宗教はすべての人に対して開かれている。その救済の対象は、人種、民族、国家、国籍、性別、階級を超えて提示される。この意味することは具体的にはその教えの内容が、その社会の周辺、辺境へ、すなわち弱さ、低さ、あるいは社会的に見えにくい存在、マイノリティーへと向かうという解放性を保持しているということである。
それは教祖の言行などが聖書や仏典、クルアーンなどの教典として残され地域のなかで再解釈され続けて今日にいたっているからだ。これらの世界宗教が一定の地域に広がり展開していった当初は、その時代その地域のなかでは新宗教であったはずである。
このようにして成立した世界宗教も、しかし歴史のなかでは当該の地域の民族が形成する国家、すなわち民族や政治、経済、軍事、文化などと深く関わり、政教一致、神政政治として宗教がその基礎を位置づけ、その結果として世界宗教もまた、歴史的現実としては民族宗教化したということをわれわれは知っている。
カトリックやイギリスの国教会のみならずプロテスタントのキリスト教もまた、「ひとつの王国にひとつの宗教(教派)」の原理を長く保持した。今日もなお「キリスト教国アメリカ」というような表現が用いられている所以である。これら世界宗教も国家として国教化している国々があり、また政教分離を掲げる世俗国家においても、ここで言う世界宗教がその社会の圧倒的多数(マジョリティー)となり民族宗教化している。
今日、われわれが自然権あるいは自然法と呼ぶ政教分離や信教の自由の原則が基本的人権として認識されることになったとしても、なお厳然としてこのような歴史的現実がある。
わたしは、これまで日本のプロテスタント・キリスト教の歴史を、またあわせて東アジア、東南アジアのキリスト教を研究してきた。具体的な事例でいえばインドネシアやタイ、マレーシア、さらに共産主義政権のもとにあるインドシナ半島の国々である。世界宗教であるキリスト教、仏教、イスラムも、これらの地域、国々の政治と宗教の関係はそれぞれに多様である。
キリスト教の歴史の研究が「キリスト教史の地域的研究」である時、これらの事例を踏まえて日本の事情を検討する際に、日本はこれらの国々とは異なり、多くの先達によって指摘されているように明治以後の日本の近代化は、欧米の市民社会を基礎づける個人の尊厳、基本的人権の理解などとは本質的に異なるものであった。
日本の場合は、徳川時代の神仏習合、すなわち宗教学的には混交宗教の状況であったものを、明治政府は神仏分離を断行し、神社非宗教論のもとに国家神道という神政政治、政教一致の国家形成を進めた。家の宗教としての「檀家」制度と地域の神社の「氏子」が並立して存在した。そして「神聖にして侵すべからざる」天皇が唯一絶対の統治の大権を掌握した。当然のことながら国家の中心は「神聖」な天皇に集中する。日本が台湾や韓国、さらに満州(中国東北部)、さらには大東亜共栄圏の各地に「神社」を創設した意味はここにある。
19世紀半ばに伝えられた日本のキリスト教にとって、それ以後、いかにしてこの日本社会のなかで認知されるか、市民権を得ることができるかが最大の課題であった。日本のキリスト教会は大日本帝国憲法の発布に際して憲法第28条に「信教の自由」と記されていることを喜び、憲法発布の当夜、祝賀会を催した。井深梶之助は「一滴の血も流されずに信教の自由が保証された」とよろこんだ。