宗教は国家を超えることができるのか ― 近代日本の宗教≪10≫(2/2ページ)
同志社大教授 原誠氏
また日露戦争後、日本政府は社会的矛盾が激化すると過激な社会主義運動を弾圧するとともに家族国家論に基づく国民教化を目的として、1912年に「三教会同」をおこなった。それは日本の諸宗教を国民道徳の振興に協力させるためで、教派神道、仏教の代表者とともにキリスト教の代表者も参加した。このときキリスト教会の大勢は政府から期待される宗教となったことを歓迎した。
また日本の植民地であった朝鮮半島において神社参拝が要求されたとき、これに抵抗した同地のキリスト教会に対して、1938年、日本基督教会議長の富田満は神社が宗教ではないと説き、神社参拝は国家の祭祀であり、信教の自由に抵触せず特定の宗教礼拝を強要したことはないと説得した。
結果として朝鮮耶蘇教長老会総会では神社参拝を強行可決した。しかしこれに反対し続けた2千人の信徒は投獄され50人が獄死した。これは神と天皇の二つに対する礼拝の要求であったからである。日本のキリスト教会は、マジョリティーである国家神道の道具となった。
また第1次宗教法案(1899年)、第2次宗教法案(1927年)に際しては、一部の日本のキリスト教会も含めた反対運動によって廃案とされたが、日中戦争が始まって国家主義が進行した39年に宗教団体法案が審議されたときには、キリスト教界はこの法律に宗教団体として「基督教」の文字が初めて入ったことをよろこぶ意見もあり、キリスト教のなかでは反対論はほとんどなかった。
41年には「日本基督教団」が設立された。これは自発的、内発的な結果としての「教会」の「合同」ではなく政府の統制によるものであった。政府はキリスト教を排除しようとしたのではない。政府が求めたのは世界宗教のひとつであるキリスト教が「日本のキリスト教」となることでその存在を許容し、これへの忠誠、貢献を求めたのであった。
このように日本におけるマイノリティーであるキリスト教は、マジョリティーである国家神道という神政政治のなかで市民権を得て社会的認知を得るための歩みを続けた。
そこで日本における世界宗教のひとつであるキリスト教は、どのような局面で世界宗教としての存在を明らかにしたのか、しえたのか、そのような事例があったのか、戦後の歩みから拾ってみたい。
日韓基本条約が締結された65年に、韓国基督教長老会はその総会に際して国交回復した日本のキリスト教の代表者として日本基督教団議長の大村勇を招いて挨拶を受けようとした。しかし挨拶を受けるか否かをめぐって3時間議論が続いた。それは36年におよぶ日本の植民地統治の歴史において、日本のキリスト教会も一定の役割を果たしたと認識されたからであった。
当初は日本代表の挨拶を拒否する意見が多数だったが、最後には僅差で挨拶を受けることに決した。その理由は、われわれの信仰は国家や民族を超えた信仰を持っているのだから、われわれは国家や民族を超えて赦すべきだ、ということであった。
議場の外で3時間待ち続けた大村議長は議場に迎えられ、総会への祝辞とともに日本の罪を謝罪した。韓国のキリスト者は、民族や国家を超えてキリスト教の立場、和解への道を開いたのである。ここにクリエイティブ・マイノリティー(創造的少数者)の存在を見ることができる。
その後、日本基督教団は67年に「戦争責任告白」(正式には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」)を明らかにした。これは戦後の日本社会の政治や文化、報道や学術、宗教のなかで最初に公にされた戦争責任告白であった。この動きは教団以外の他のプロテスタント教会へと広がり、さらに日本の代表的な仏教教団へと広がった。
これは政治問題や社会問題ではなく、宗教であるキリスト教の信仰理解に関する問題である。世界宗教であるキリスト教もまた世界宗教のひとつとしてクリエイティブ・マイノリティーとしての歩みが求められる。