中国の天台仏教と日本の日蓮仏教 ― 同じ法華信仰、異なる立場(2/2ページ)
「法華仏教研究」編集長 花野充道氏
智顗のように一心三観を修して、円融不二の円理に住しているだけでは、現実の矛盾は何も解決できない。現実は国家に三災七難が起こり、民衆は塗炭の苦しみに喘いでいるではないか。それを仏教者は見て見ぬふりをするのか。世俗から離れて、自分だけ仏道を行じていればよいのか。円体無殊の教義に起因する権実・正邪の混乱によって、国土に謗法が充満し、それによって災難が頻発しているのだから、権実の戦さを起こして正邪を決し、我此土安穏の仏国土を成就することこそ、大乗菩薩の使命である。
日蓮は、法華経を受持すればすべての人の成仏が叶うように、国家が法華一乗の正法を受持すれば(立正)、国家の成仏が叶う(安国)と考えた。仏教は民衆にあきらめを説く教えではない。現実の苦難に目をつぶり、観念の世界に逃避することを教えるものではない。仏教が現実の人間の苦悩に対して、無力であっては意味がない。日蓮は、仏教に息災延命・国家安穏の力用がなければ正法とは言えない、という信念に立っていたのである。これは近代になって、中国で提唱された「人間仏教」に一脈通ずる思想である。
このような日蓮仏教は、現実から逃避しない、浄土を他土に求めない、成仏を来世に設定しない。今、ここにいる自分が、社会の中でどのように生きるかを問う仏教であるから、非常に実存主義的である。現実の矛盾・不幸・宿業とどう向き合っていくか、俗世間の政治とどう関わり合っていくか。日蓮の立正安国の思想は、旧仏教の鎮護国家の思想的系譜上にあるにもかかわらず、旧仏教が権力の庇護のもとに、王法と仏法の共栄をはかったのに対して、日蓮は権力と対決してでも、安国(仏国土)を実現すべく、忘己利他の大乗菩薩行を実践した。権力の弾圧に耐えて、理想社会の実現のために粉骨砕身する生き方は、共産主義の革命思想に通ずるものがある。
近代の日蓮主義者には、王仏冥合の国体主義(天皇制)を宣揚する右翼思想家とともに、富める者の支配から貧しい者を解放して、平等な社会(ユートピア)を実現すべく、権力と戦った左翼思想家まで含まれているのは、そのためである。このような日蓮仏教の特異性(好戦的な教義)をプラス評価するか、マイナス評価するかは、意見の分かれるところであろう。
仏教が世俗(国家権力)とどのように関わり合っていくべきか。これは非常に難しい問題である。現在の日本において、日蓮仏教教団の一つ(創価学会)の政治活動(公明党)に批判が集まりがちであるが、政策の是非は別として、これは日蓮仏教から必然的に展開する菩薩行の一つのあり方である。ただし今日、公明党が政権批判の野党から政権与党へと転出した以上、権力や矛盾と闘うスタンスを保持できるがどうかが課題である。
闘いを好まず、和を尊んで、仏教を個人の内面に閉じ込める傾向の強い日本仏教が、最近になって、原子力発電反対の決議をしたり、安全保障関連法案反対の大衆運動を起こしたり、政治家へのはたらきかけを強めたりしている。この国土に平和と安穏を実現するために、抵抗勢力とどのように闘うか。あるいは国家権力(政治)にどのようなアプローチをすべきか。現今の日本の仏教界では、進歩的な人々によって真剣な討議が行われている。
中国の仏教者にとっても、問題意識は同じであると思う。人類の一員の自覚に立って、世界の平和と人類の繁栄のために何ができるか。また何をなさねばならないのか。共産党政権下の中国において、政治権力と宗教の関係はいかにあるべきか。仏教者が社会の矛盾を是正して、いかに民衆の幸福と国家の発展に貢献すべきか。このような人類共通の課題に対して、日本と中国の仏教者が一緒になって討議する必要性を痛感している。