中国の天台仏教と日本の日蓮仏教 ― 同じ法華信仰、異なる立場(1/2ページ)
「法華仏教研究」編集長 花野充道氏
昨年11月17日から19日にかけて、中国陝西省の西安市(昔の長安の都)で「漢伝仏教祖庭文化国際シンポジウム」が開催された。世界各国から仏教関係者や研究者が約300人集まり、様々な討議が行われた。近年、中国では社会活動を推奨する「人間仏教」が高唱されていることもあり、法華思想を研究する私は、社会との関わりを重視する日蓮仏教と天台仏教とを対比して発表した。以下はその要旨である。
日蓮は「インドの釈迦、中国の天台、日本の伝教から相承を受けて、末法に法華仏教を弘める」(『顕仏未来記』)と述べている。しかし、日蓮の法華仏教と天台の法華仏教は全く異なっている。天台は仏教正統の止観の修行によって悟りを求める仏教である。ところが日蓮は、日本に称名念仏を弘めた法然の浄土教をふまえて、唱題によって救われる(仏果を譲与される)仏教を打ち立てた。智顗が円教至上主義に立つのに対して、日蓮は法華経至上主義に立っている。
智顗は蔵・通・別・円の四教を分別し、真理に「円理」と「偏理」を立てて、諸経の円教に説かれる円理は「円体無殊」であると論ずる。方便の権教に説かれる「偏理」とは、一方に偏った不完全な理という意味で、我執に基づいて正義と邪義とを分別するから諍いが起こる。対して実教に説かれる「円理」とは、円満で完全な理という意味で、無分別の智に基づいて正邪一如の実相(空)に住するから諍いが起こらない。これが天台仏教の論理である。
対して日蓮は、法華経の「正直捨方便、但説無上道」の文を振りかざして、華厳・阿含・方等・般若の爾前経を「方便の権経」として批判し、諸宗を攻撃する。たび重なる天変地異によって、民衆が苦しみに喘いでいるのは、日本に謗法が充満しているからである。日本国の謗法は、爾前の円と法華の円が一つという義(円体無殊)から始まっている。権実・正邪の差別をきちんと分別し、謗法の悪法を捨てて正法の法華経(正義)を立てれば、天下泰平・国土安穏が実現する。これが日蓮の立正安国の論理である。
智顗は『法華玄義』巻九上に、「蔵教は色を滅して真に通ず。当体即空を得ないから諍いが多い。通教は色に即して真に通じ、人に諍い無き法を示す。別教は次第に色を滅して中に通ず。当体即中を得ないから諍いが多い。円教は色に即して中に通じ、人に諍い無き法を示す」(取意)と論ずる。蔵教(析空観)と別教(次第三観)は、相対分別の観を修するから諍いが起こるが、通教(体空観)と円教(一心三観)は、絶対無分別の観を修するから諍いが起こらない。
また智顗は『法華玄義』巻九上に、「法華は折伏して、権門の理を破す。涅槃は摂受して、更に権門を許す」と論ずる。涅槃経は捃拾教であるから、権教を用いて衆生を救う摂受の教である。対して法華経は、正直捨方便の純円教であるから、権門の理を破す折伏の教である。
ここで智顗は、「法華は折伏して、権門の分別の理を破す」と述べて、諸法実相(大乗空・無分別)の立場から、正邪・善悪を分別して諍っている仏教者の我執を批判している。ところが日蓮は、同じ「法華折伏、破権門理」の文を掲げながら、智顗と全く反対に、正邪・善悪を分別して邪法・悪法の諸宗を攻撃せよ、と言っている。
「末法の世は、人々が正法に背き、邪法に帰依しているので、国土に悪鬼が入り込み、三災七難を引き起こしている。日蓮は釈尊の命令に従って、経文の通りに、権教の諸経と実教の法華経との戦さを起こし、八宗・十宗の敵人を攻撃した。しかし敵は多く、味方は少ないために、いつまでも戦いが止むことはない。『法華折伏、破権門理』の金言に従って、権教権門の人々を一人も残らず攻め落として、釈尊の家来となし、天下万民が悉く一仏乗に帰依して、南無妙法蓮華経と唱えたならば、国は羲農の世となって栄え、人は災難を払って長寿を得るであろう」(『如説修行抄』)
智顗は、相対差別の偏理(権門の理)に執するから諍いが起こるのであって、絶対平等の円理を悟れば諍いは息む、と論じている。対して日蓮は、権実雑乱の時は権実の戦さを起こして、権教の邪義(権門の理)を折伏せよ、と安国のための諍いを主張している。大乗空の絶対世界に住して、我執による諍いを批判する仏教者智顗。善悪の相対世界に住して、安国のために闘う仏教者日蓮。同じ法華仏教でも全く異なっている。