新出資料による安楽庵策伝の出自と交流の再検討(2/2ページ)
愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏
そして、「以故兼領住持旧寺惟五、挿草者七所、大運為最」と、7カ所の寺院建立について述べ、その中でも大運寺が最大であったという(挿草とは草創のこと)。
秀家は大運寺に立ち寄って喫茶した翌日、この苫屋壺を策伝に贈り、策伝はそれ以後春夏秋冬、茶事のたびにこれを用いた。霊三は、禅林寺の現住果空俊式からこの文章の製作を依頼され、隣交の友誼によってこれを書いたとして、「文禄三龍集甲午如意珠日、扶桑一国師派下見南禅玄圃叟霊三」と結ぶ。
さて、策伝の伝記研究から見て、この資料は特に次の2点が注目される。一つは、策伝の出自が金森氏であるなどとは全く言及がないこと。もう一つは、策伝による中国地方の寺院建立の背後に宇喜多秀家の帰依があったということである。「苫屋壺記」が起草された文禄3年は、文禄・慶長の役の中間であり、秀吉晩年の権勢が絶頂期にあった時期である。
後述のごとく、もし策伝が本当に金森長近の弟であったならば、ここにその事を述べないのは全く不自然で、策伝の出自は金森氏とは関係がないと考えざるを得ない。また、秀吉の「五大老」の一人であった宇喜多秀家が策伝の檀越であったというのは、関山・鈴木両氏をはじめとして従来何人も言及していない新しい知見である。
一体、法兄である禅林寺現住果空を介してまで、南禅寺玄圃霊三に「苫屋壺記」の製作を依頼した策伝の真意はどこにあったのか。この「苫屋壺記」なる文章は、策伝所持の真壺の紹介にこと寄せて、実は策伝自身を紹介するのが真の目的であると筆者は考えている。
つまり策伝は、秀吉重用の玄圃霊三の文章により、自分が秀吉恩顧の宇喜多秀家の帰依を受けていることや、利休お墨付きの真壺をも所持することを証明し、もって秀吉全盛期の京阪神の貴紳世界に、高僧にして茶人としての自分自身を押し出す「自己紹介状」にしようとしたのである。ちなみに天正19(1591)年の利休自刃以来、千家再興が許されたのが4年後のこの年、文禄3年とされている(不審庵蔵「少庵召出状」)。
一方、策伝の実兄とされた金森長近は、元来織田信秀・信長親子の家臣で、賤ヶ岳の合戦を契機に秀吉の配下となって以降、12歳年下の秀吉が慶長3(1598)年に逝去するまで秀吉に仕えて転戦し、秀吉没後は次第に家康に親近していった。「苫屋壺記」が書かれた文禄3年当時、長近は71歳で健在であった。
また長近は、利休旧蔵の「利休丸壺」と称される唐物茶入を所持したこともあり(現香雪美術館蔵)、利休自刃後、その長子道安の身柄を預かったとされるなど、茶人としても当時知られており、その養子可重にも茶名があった。この可重の長子が「姫宗和」と称される金森宗和であって、金森氏の茶歴は宗和から急に始まったものではなく、長近以来代々続いていたことがわかる。
秀吉に愛された宇喜多秀家の帰依を受けた策伝が、もし本当に金森氏の出身であったならば、秀吉全盛期の公武社会への自己紹介状として、わざわざ秀吉の顧問である玄圃霊三に製作を依頼した「苫屋壺記」において、自身が秀吉配下の老将であり茶人でもある金森長近の実弟であることをあえて記さぬということは考えられない。策伝はあくまでも「三輪の里人」であって、金森氏とは無関係だったのである。
41歳の文禄3年に堺の正法寺に入寺したことは、策伝の生涯において大きな転換点になったものと思われ、まさにその年に作成されたのが誓願寺蔵「苫屋壺記」である。初めて明らかになった宇喜多秀家との交際の実態など、探究すべき残された課題は多い。