上野彰義隊墓所の明治150年 ― 生き残り隊士が供養に尽力(2/2ページ)
東京学芸大名誉教授 小川潔氏
ところで、上野の山での火葬の後、彰義隊士の墓は圓通寺に建てられた。それにもかかわらず、上野の埋葬の地に墓を建てた小川ら生き残り隊士のこだわりは何だったのだろうか。墓を建て、墓守として暮らすようになってからの小川興郷の心境を語る文書は残っていない。生活苦、借財の返済、墓の再建、こうした過程で、一橋家への仕官前から苦楽を共にしたはずの妻子と離別しその後再婚し、山岡鉄太郎から「警視総監くらいにはなれるから政府に仕官しないか」と誘われたにもかかわらず、これを断って貧乏な墓守暮らしに徹した。ただ、「印を残したかった」と言い伝えられているばかりである。
明治以降、興郷や後継の人々は、墓守として住むことや燈籠・柵の建設・修理など、墓所の維持に関するこまごまとしたことを、いちいち上野公園を管轄する博物局(政府の末端出先機関)に伺いを出して許可を得ていることが、残された書類からわかる。彰義隊墓石は台東区登録の有形文化財になったが、区の教育委員会による解説書の中では、興郷らが国から一つ一つ許可をとっていたのは、朝敵賊軍となった彰義隊の名誉回復・顕彰を国が認めた証拠として残す意味があったのではないかと指摘されている。今となっては、沈黙して墓守として半生を送った興郷の思いを正確に推し量るすべはないが、彼のこうした姿そのものが、時代に順応しないまま生きた彰義隊士の一徹な思いを表しているとも言えるのではないだろうか。
上野公園の相談所
彰義隊墓所には、彰義隊士の子孫や研究家をはじめとして、いろいろな人が訪れた。江戸文化史の大家、故西山松之助さんは、若いころに墓所の婦人からよくしてもらったと言って、高齢となってから講演を引き受けてくださった。この婦人は、興郷の後妻りての後継となった私の母ミツだったらしい。ミツや私、それに兄彰が墓守をしていた時代、先祖が上野戦争に参加したらしいといって訪ねてくる人が年に何人かあった。そのほとんどは、詳しいいきさつがわからず、墓所に来れば隊士の名簿に先祖の名前を見つけられるかと期待してのことだった。2千人とも3千人ともいわれた彰義隊の規模に対して、戦死者名簿には260名余、組織名簿にもその程度の人数しか記録がない。戦争当日に向けて、隊士は増え続け、脱藩して参加した地方の各藩士たちも多かったので、完全な記録は残らなかった。そんな中で、郷土史家の須藤嘉六さんが旧浜田藩士の参戦者名簿を確認するために墓所の記録が役立ったり、静岡・島田の大石貞男さんによる牧の原の茶畑開拓の記録づくりに隊士たちの手紙類が参考になったりした。
一方、上野公園という立地のゆえか、彰義隊とは無関係の来訪者も多数あった。そのなかで、集団就職の果てに離職した若者や、事業に失敗して自殺しようとした人も、ここから新たな人生に踏み出していった。また、上野公園へ再訪した人からは、昔と変わらない風景があってほっとしたという声もよく聞かれた。私が学生のころ、鹿児島関係者の団体が西郷さんの銅像を掃除しようと上野にやって来た。ところが銅像のそばに水道施設がなかったので、ここが西郷さんと戦った彰義隊の墓所とは知らずに銅像のすぐ後ろにある私の住まいに水を求めてきた。私たちは苦笑しながら、「敵」に水を贈った。墓所はこのように、上野公園にあってなんでも相談所のようなサービス機関の役も果たしていたのである。