上野彰義隊墓所の明治150年 ― 生き残り隊士が供養に尽力(1/2ページ)
東京学芸大名誉教授 小川潔氏
5月15日追善法要
2017年の今年は、数えて明治150年に当たる。江戸城無血開城の直後に起こった上野戦争に敗れた彰義隊の墓が、東京・上野公園内に現存することを知る人は多くないかも知れない。その地が西郷さんの銅像の後ろと言えば見当がつくだろうか。もっとも、西郷さんは上野戦争の折に彰義隊を攻めた方の現場指揮者であり、銅像は既にあった彰義隊墓所のすぐ前に置かれた。その墓前では戦争当日の5月15日を命日として、毎年、彰義隊戦死者の追善法要が行われてきた。
彰義隊のそもそもは、大政奉還をした15代将軍徳川慶喜公を死罪にせよという新政府内の声に対して、慶喜公の助命嘆願の動きの一つとして、慶喜公が将軍になる前に当主をしていた一橋家の家来を中心に集まりが持たれたことに起因する。それが尊王・反薩長という方向に拡大して、謹慎中の慶喜公の警護、後に寛永寺山主の輪王寺宮さまの警護という大義名分のもと上野の山を拠点とし、とうとう討幕派諸藩の連合軍である新政府軍と正面衝突してしまった。
人数と火器に劣る彰義隊は半日で総崩れとなり、佐幕派諸藩の士気をくじくという新政府参謀大村益次郎の思惑通りにことが運んだ。新政府軍の遺体はすぐに片付けられたが、彰義隊士の遺体は見せしめのために現地にさらされ、ようやく三ノ輪の圓通寺住職仏磨らの手で荼毘に伏されたが、骨となったのは一部で、多くの遺体が火葬の地に埋められたと伝えられている。
明治になって、生き残り隊士の小川椙太(改名して興郷)らが新政府に申請し、許可を得て1874(明治7)年、火葬の地に唐銅の宝塔型墓碑ができたが、借金のかたに持ち去られ、「戦死の墓」という山岡鉄太郎の筆が刻まれた現存する大墓石は81年に完成、国の許可を得て84年から法要が営まれてきた。この時点でもなお、彰義隊という名称は墓石からは伏せられたままであった。また、大墓石の前にある小墓碑は、寛永寺の二つの子院の主僧、護国院清水谷慶順、寒松院多田孝泉により、69年に秘かに建てられたものである。
上野彰義隊の墓前供養は、現在では日蓮宗東京都北部宗務所が主体となって行っている。上野の寛永寺は天台宗、徳川家の菩提寺の増上寺は浄土宗なのになぜ日蓮宗かというと、多額の借金を抱えた興郷らの窮状を見かねて白山大乗寺の住職鶏溪日瞬が援助に乗り出し、興郷らの代理人となって再建を果たした。日瞬はのちに日蓮宗大本山池上本門寺の貫首となった人である。
印を残したかった
彰義隊の評価は、動乱期に一旗揚げようと集まった烏合の衆という見方と、主君(徳川家)への義をあらわすという「彰義隊」の文字通りの意味に生きた人々だったという見方が交錯してきた。いずれも真実の一側面を捉えていると言えよう。前者については、実質的隊長だった天野八郎がもともとは群馬の郷士の出であったことや、戦争当日、開戦前に脱走してしまった者たちが千の単位でいたという話がある。天野八郎自身も上野の山での戦いの最中、陣頭指揮をしていて振り向いたら誰もついてこなかったのを見て、旗本たちのふがいなさを実感したと言われる。一方、後者については、明治初めのころに生き残り隊士らが書き残したものには、慶喜公に臣下として尽くした思いを訴えた言葉がよく出てくるし、墓前法要の折に遺族や導師の言葉の中に受け継がれてきた。また、彰義隊の建前には尊王という言葉が必ず付いてくる。朝廷への反抗ではなく、あくまで主君慶喜公を窮地に追いやった薩長勢力への対抗だったというのである。
筆者は興郷の子孫として、一時墓守を経験した後、上野の墓所を兄へ引き渡して近隣に移ったが、兄が病気高齢となって転居した2003年まで、墓の傍らには小川代々の住居があった。そこには冊子から1枚の紙切れまで、あわせて500点以上の資料が残されていた(これらの多くは台東区に寄贈された)。上野戦争直後、彰義隊士ばかりが遺体を放置され傷んでいくのは見るに堪えないと、隊士木城安太郎の妻花野が勝安房に匿名で出した手紙をのちに勝が墓所へ持ってきたのをはじめ、1863(文久3)年に山岡鉄太郎が担当した浪士集めの指示書の副本、函館にいたるまでの戊辰戦争全体の記録や参戦者名簿など、墓所が彰義隊や幕末関係の情報集積センターのような役割を果たしていたように見える。