増上寺第36世祐天上人300年御遠忌に寄せて(1/2ページ)
浄土宗祐天寺住職 巖谷勝正氏
祐天上人と言えば、南の字を丸く弥の弓偏と陁(陀の俗字)の也の終筆を伸ばす独特の「南無阿弥陁佛」の六字名号が有名である。その名号を持つことで江戸の庶民をはじめ多くの人々が利益を被ったとの話が残る。『祐天大僧正利益記』(文化5〈1808〉年)などにまとめられた利益は、「死霊得脱」「火難除け」「水難除け」「刀難除け」「安産」など多岐にわたる。もちろんその中には往生譚も含まれるが、多くの利益がもたらされた。なぜ、祐天上人は名号を大量に書写するようになったのか。それは東大寺大勧進に協力するためというのが大きな理由であった。
祐天上人は、貞享3(1686)年、50歳頃に京洛や畿内の名刹を歴訪し、そのとき目にしたのが東大寺大仏の尊像が雨露に侵されている姿であった。堂宇再建の時には必ず力になるとの思いを強くして江戸に戻った祐天上人は、牛島に草庵を結んだ。貞享4(1687)年から公慶上人による東大寺再建の大勧進が始まり、江戸にも勧進所が設けられた。祐天上人が勧進所に協力を申し出たところ、金子よりも名号を所望され、そこに大量の名号を持ち込むことになったのである。それとは別に、祐天上人は請われるままに名号を書写しては人々に授けていた。その名号の利益は江戸中の噂になり、いつしか江戸幕府第五代将軍徳川綱吉生母桂昌院の耳に入った。
元禄8(1695)年から祐天上人は桂昌院に呼ばれ、増上寺で法談するようになった。桂昌院は「念仏は下人の唱えもの」という疑念を払拭し、祐天上人に帰依した。ついに元禄12(1699)年、桂昌院の進言により綱吉の台命が発せられ、祐天上人は檀林生実(現、千葉市)大巌寺の住職となった。
このとき、牛島の人々は「祐天上人の出世によって身近に教導を受けられなくなる」と、せめてその姿を残そうと寿像を作り、また、帰依者であり祐天上人開闢の常念仏を自身の菩提寺で始めた松坂の商人はお祝いを贈った。
その後、祐天上人は飯沼(現、茨城県常総市)弘経寺住職を経て小石川伝通院の住職となった。江戸の檀林主となり、綱吉の法問の席に呼ばれることが多くなった。綱吉は祐天上人に問い掛けた。「祐天上人の名号の験益が最も多いと世間の人は言うがその実否いかん」。祐天上人は明解に答え、信頼を得た。その証拠は、富士山が宝永の大噴火を起こしたときの出来事でわかる。富士山の噴火の吉凶を諸宗の僧侶に問い掛けたとき、ひとり祐天上人は綱吉を諫めた。「砂は下にあるもの、それが上から降るのは逆さまである。上に生類を憐れみ、人々を苦しめるのも逆さまである」と。綱吉はこの言葉に翌日褒美をくだされた。
綱吉を継いだ六代将軍家宣は祐天上人に増上寺住職を命じ、その日に大僧正に任じた。同日に大僧正となるのは祐天上人から始まった。
桂昌院の帰依の影響は、徳川家の多くの女性をはじめ諸大名家にまで及んだ。病弱であった綱吉息女明信院は自ら描いた弥陀三尊に祐天上人から名号を授かり、綱吉側室瑞春院は祐天上人の説法の姿を写して寿像を作り、桂昌院の臨終には祐天上人が臨終行儀を勤めた。家宣正室天英院、七代家継生母月光院、綱吉養女で島津継豊に嫁いだ浄岸院らは祐天上人遷化後も関係をつないだ女性たちである。
知恩院門跡尊統法親王が、伝通院住職であった祐天上人を訪ねて名号を請い受けたことがあった。宝永7(1710)年のことで、所望したのは東山天皇の女院承秋門院である。おそらくは前年に崩御した東山天皇の菩提を弔うためではなかったか。尊統法親王と承秋門院は姉弟であり、後に祐天上人は承秋門院に請われ、血脈と法名を授けた。