増上寺第36世祐天上人300年御遠忌に寄せて(2/2ページ)
浄土宗祐天寺住職 巖谷勝正氏
祐天上人は庶民から篤い信仰を寄せられ、将軍家、大名家、皇族に至る人々から帰依を受けた高僧である。一方で、祐天上人を称して「江戸の悪霊祓い師」という人もいる。祐天上人の名の広がりは名号信仰から始まったわけではなかった。その教化の原点は、祐天上人36歳(寛文12〈1672〉年)のときに遡る。祐天上人は師僧である檀通上人の随身衆の一人として飯沼弘経寺にいた。事件は起こった。菊という女性が半狂乱となり、あらぬ事を口走るようになったのである。さまざまな祈祷を頼るが容態は悪化し、村人たちが弘経寺を頼って来た。その菊を念仏で済くったのが祐天上人であった。菊の狂乱の原因は、菊の父与右衛門が殺した前妻累の死霊だったという。この話を最初に世に紹介したのは『古今犬著聞集』(貞享元年)であり、後に『死霊解脱物語聞書』という版本が元禄3(1690)年に開版された。貞享年間にはすでに祐天という名は広まっており、このことが影響して名号信仰へとつながっていったのである。
祐天上人の名は、その実像とは裏腹に日本文化に大きな影響を与えた。「死霊解脱」という言葉が表すように歌舞伎では祐天上人遷化13年後にはすでに怪談物として上演された。この累物は「伊達競阿国戯場」(安永7〈1778〉年)、「阿国御前化粧鏡」(文化6〈1809〉年)、「法懸松成田利剣」(文政6〈1823〉年)と一系統を築き現在まで上演され続けている。大正15(1926)年に歌舞伎役者らによって祐天寺に建立された「かさね塚」には今も参詣者が絶えない。
読み物には、宝暦13(1763)年に成立した『祐天大僧正御伝記』がある。この本はすべて写本であるが今でも多数出回っている。版本では、『祐天上人一代記』(享和3〈1803〉年)や曲亭馬琴の『新累解脱物語』(文化4〈1807〉年)がある。現在も、松浦だるまによる漫画『累』(講談社)が発刊されている。
話芸の世界では、落語家二代目三遊亭圓生が「怪談累草紙」、三遊亭圓朝が「真景累ヶ淵」を作り口演し、現在でも桂歌丸や林家正雀らによって受け継がれている。講談では、廃仏毀釈後に高僧の出現を望む世相の中、好んで高僧伝が演じられ、祐天上人の伝記は七代目一龍斎貞山や桃川桂玉らが語り、現在でも一龍斎貞花らが取り上げている。
近年、累物は映画化され、「怪談累ヶ淵」(1957年)、「怪談」(2007年)が上映された。
このように、祐天の名や累済度という出来事は現在に至るまで日本文化の中に息づいているのである。
一方で、祐天上人の名号に対する信仰は根強いものがある。それは祐天上人の名号を刻んだ石塔が建立され続けていることからも分かる。現在、北は青森県、西は福江島(長崎県)まで全国各地に祐天上人の名号石塔が確認されており、その数は250基に上る。その建立意趣は、三界万霊供養・災害物故者回向・廻国供養・常念仏回向・念仏講中回向などさまざまであり、建立年代も元禄4(1691)年から現代に至る。これによって祐天上人の名号信仰の広がりと息の長さを確認することができる。
祐天上人は江戸時代における念仏の事実上の中興主である。なぜなら民衆の信仰を念仏に向け、多くの地域に常念仏を広め、祐天上人の名号を中心に念仏講が勤められた。また、寛永寺に傾いた徳川家菩提寺の地位を増上寺に引き戻したのも祐天上人である。100回忌のときには歌舞伎の上演や『利益記』の刊行により信仰が再燃し、名号石塔がさまざまな形で建立された。200回忌のときは講談で取り上げられてきた時代と重なる。300回忌の今、再び世の中に念仏による真の救済を伝えることが上人に対する誠の報恩行であることを述べてまとめとしたい。