植民地朝鮮での「仏教の語られ方」― 近代日本の宗教≪7≫(2/2ページ)
京都府立大准教授 川瀬貴也氏
一方、日本人から見た朝鮮仏教の衰頽の原因として、「祖師崇拝」の欠如が唱えられてもいた。この雑誌の主幹の中村三笑は「彼等は只だ朝夕釈尊を礼拝すれば、僧侶の能事足れりと考えているようであるが、それだけでは決して信仰は起らない。法は行われない。祖師や開山に対する尊崇の念は、少なくとも僧侶たるものの中心精神でなければならぬ。僧侶諸師にして此点を看却するならば、如何なる振興策も、恐らくは徒労に帰するであろう(中村三笑『朝鮮仏教衰微の主因』、22号)」と述べ、朝鮮仏教には日本仏教のような「祖師崇拝」がないのを朝鮮仏教の不振の原因としている。これは祖師崇拝が中心であった日本の各宗派の在り方を裏返した見方であった。このように『朝鮮仏教』誌上では、朝鮮仏教を「日本仏教に比べて民衆への影響力が小さく、近代化もしていない」と見なしていたのである。
戒律から反対意見 留学僧に肯定の声
日本仏教が朝鮮仏教に与えた最大の影響は、「肉食妻帯」の「輸出」であろう。事実、朝鮮仏教界は今現在も肉食妻帯を認めない曹渓宗が主流である(妻帯を認める太古宗は解放後に曹渓宗から分離)が、実はこの雑誌でも肉食妻帯の可否が論じられていた。
まずこの雑誌では
「現下朝鮮に於て、従前三十本山の住職たる者は、戒律を厳持する清僧で無ければならぬと云うことが、寺法の明文に規定されて居ったのであるが、近来追々内地留学出身の青年僧侶が帰来して、それぞれ故山に入る者が多くなった事も近因をなし、内密に婦女を蓄え、僧戒を紊る者が増加するので、寧ろ寺法を更改して肉喰妻帯を公許すべしと主張する者尠なからず。本山側から、当局の諒解を求むる運動をなすに至り、之に対し禅界の有力者たる白龍城師を中心とする百余名の僧侶は、奮然蹶起して、是が反対運動を試みると云う状態にまで立ち至ったのである。僧侶に肉喰妻帯を公許するが、果して是乎、せざるが、非乎。乞う、満天下の僧俗諸賢、各位の抱懐せらるる処を、堂々本誌上に披瀝論議せされよ!(『僧侶肉喰妻帯の可否』、26号)」
と述べ、日朝仏教双方からの意見を募ったのである。ここで注目すべきは、朝鮮人僧侶に、特に「内地」に留学した者の中に「肉食妻帯」僧が出てきたことが述べられていることである。
この件に関しては27号(26年7月)から29号(同年9月)の3回にわたって、日朝の僧侶、信徒から投稿された意見が掲載されている。概して日本人側は、浄土真宗の例を持ち出して肯定的、朝鮮人側は「若し強いて肉を喰らい、婦女を養わんと欲するならば、須らく仏弟子たる僧位を返却して、而して後に公然之を行うべきであると思う(「須らく僧位を捨てよ」、27号)」と、大半が戒律から反対意見を出していた。
ただし、朝鮮人僧侶にも
「白龍城氏一派の建白書に就いては、私としては何も言いたくもなく、また論ずべき何等の価値も有しない問題である。又教界に与論を喚起をせしめる様なものでもない。というのは、この問題に対しては、当局に建白書まで提出する必要もなく、僧侶自ら慎むべき問題で結局は、個人の自由であるのである。肉喰妻帯を以って朝鮮仏教の衰退の原因ともなり、又此の禁止によつて復興するものでもない(「朝鮮仏教の興廃とは何の関係もない」、27号)」
というような肉食妻帯に肯定的な意見を持つ者が散見できる。「内地」留学から帰国して「妻帯」した僧侶も単なる「破戒」「堕落」と言うよりは「日本的仏教」を拒否するか否か、と考えた方が良いのかも知れない。
植民地朝鮮における日本仏教の活動は、朝鮮人布教の失敗や統治権力との協力や癒着がこれまで語られてきたが、一方では、肉食妻帯や、「近世仏教堕落観」のような現在まで続く影響を与えてしまったことも想起するべきであろう。