相国寺派宗制と仏教教団の自治 ― 近代日本の宗教≪3≫(1/2ページ)
大本山相国寺寺史編纂室研究員 藤田和敏氏
近代の仏教教団は、明治初年から新政府が推進した神道国教化政策によって、新たな宗教政策の枠組みに組み込まれることになった。神道国教化政策とは、「神武天皇による国家創業の政治」への復帰を理念とする王政復古のクーデターにより幕府から政権を奪取した新政府が、宮中祭祀を担う天皇の絶対的な神権性を強調するとともに、神道に基づく国民教化を実施することで自らの権力を正統化しようと試みたものである。
神道による国民教化は大教宣布と呼ばれ、国家から教導職という役職に任じられた全国の神職と僧侶が教化の最前線に出ることになった。神道による教化を行う教導職に僧侶が就任することは奇妙な話であるが、これは廃仏毀釈などで大打撃を受けた仏教教団が、巻き返しを図るために国家に対して次のような主張を行った結果、実現したものである。主張とはすなわち、説法に慣れた僧侶の方が神職よりも国民教化に向いており、新たに国内に浸透し始めたキリスト教に対抗するためにも有効だとするものであった。
1872(明治5)年4月25日に、大教正など14等級の教導職における役職が設けられることにより教導職制度は始まった。それとともに、この段階での仏教諸宗派は天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗の7宗派にまとめられ、布教伝達の人材養育と末派寺院の取り締まりのために、各宗派の監督者が教導職管長と呼ばれる役職に就くことになった。現在でも宗派の長を管長という役職名で呼ぶことが多いが、これは教導職管長に端を発したものである。
教導職に就任した僧侶たちは、「三条教則」という大教宣布の大綱に従って国民教化を展開することになった。「三条教則」とは、
第一条 敬神愛国の旨を体すべき事
第二条 天理人道を明らかにすべき事
第三条 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事
の3カ条で成り立っており、国家と天皇と神道を敬うことを謳ったものであった。このような「三条教則」と仏教の教理を整合的に解釈することは困難であり、現場で教化を担う僧侶たちの不満は高まっていった。そしてその不満は、神道国教化政策の破綻へとつながったのである。
新政府の長州閥と懇意な関係にあった西本願寺の僧侶島地黙雷は、留学したヨーロッパで信教自由・政教分離原則が貫徹した政治と宗教の関係を深く観察し、帰国後に神道国教化政策を激しく攻撃した。島地に率いられた浄土真宗が、教導職養成機関である大教院からの離脱を目指して運動を始めた結果、75(同8)年4月に大教院は廃止され、神道国教化政策は頓挫したのである。
さらに、84(同17)年8月の太政官布達第19号によって教導職が廃止された。この布達の第3条・第4条で、管長を公選することと宗派の規則を作ることが規定されている。明治政府は教導職制度によって直接に僧侶を把握することを断念し、宗教を超える宗教として神道を新たに位置づけ直した国家神道体制のもとで、仏教教団に一定の自治を認めたのである。
72(同5)年の7宗派は、大教宣布を効率よく進めるために国家によって強制されたものであった。そのような宗派統合は早い段階で破綻し、74(同7)年に禅宗が臨済宗・曹洞宗に分立、さらに76(同9)年に臨済宗が相国寺派などの9派に分かれることになった。