相国寺派宗制と仏教教団の自治 ― 近代日本の宗教≪3≫(2/2ページ)
大本山相国寺寺史編纂室研究員 藤田和敏氏
相国寺派は、84(同17)年太政官布達第19号に基づき、同年に「宗制寺法」を制定する。この「宗制寺法」には投票による管長の選任が規定されており、近代的な教団自治を推し進める性格を持ってはいたが、全83条の簡単なものであったために、次第に複雑化する宗派運営に対応できなくなっていった。
廃仏毀釈・上知令などで経営基盤を失った相国寺派宗務本院の財政は、明治20年代以降に悪化の一途をたどった。そのことは宗費の増大という形で末寺財政に転嫁され、宗費の滞納が相次ぐことになった。行き詰まる宗派運営に嫌気を感じた末寺は、相国寺派からの独立を意図し始めた。
97(同30)年9月、富山県高岡市に所在する国泰寺が、宗派からの離脱を願い出る「所轄分離承諾願」を相国寺派管長に提出した。国泰寺は元来、相国寺とは無関係の独立した本山寺院であったが、神道国教化政策に伴い73(同6)年に相国寺派に統合されていた。「所轄分離承諾願」には次のようなことが述べられている。
すなわち、近年臨済宗各派で寺班法(宗費の賦課基準となる末寺の等級規則)を制定しようとしており、このような本山側の動向は国泰寺固有の宗教活動を阻害する――と。
相国寺派は、財政基盤確立を目的とした末寺に対しての新たな規則の作成を意図していたのであり、明治以前に相国寺派とのつながりがなかった国泰寺は激しく反発した。相国寺派は国泰寺住職である梅田瑞雲師を擯斥(宗派除名)することで、取り敢えずは国泰寺の独立を食い止めたのである。
これ以降も国泰寺は独立への動きを続け、1905(同38)年12月に国泰寺の相国寺派からの離脱が内務省の認めるところとなった。末寺を締め付けた結果、さらなる財政窮乏に陥るという悪循環に見舞われた相国寺派は、宗派建て直しのための新たな手段を模索することになった。それが新宗制の編纂である。
国泰寺独立から7年が経過した12(同45)年に相国寺派の諮問会が開催され、そこで新宗制の原案が審議された。そして13(大正2)年3月に、新宗制「臨済宗相国寺派紀綱」が制定されたのである。
「臨済宗相国寺派紀綱」は全444条であり、1884(明治17)年「宗制寺法」を大幅に増補改訂したものであった。「臨済宗相国寺派紀綱」の要点は以下の3点である。
すなわち、①管長選挙についての規定が充実しており、宗派の民主的運営が意識されていたこと、②懲罰規定が詳細に定められており、反宗派的活動には厳正に対処することが意図されていたこと、③末寺の寺格・寺班を新たに定義づけたこと――である。
「臨済宗相国寺派紀綱」の内容からは、国家神道体制によって仏教教団が厳しく統制されていた明治期においても、僧侶たちの努力によって新たな形での自治を獲得することが可能であったことがうかがえる。「臨済宗相国寺派紀綱」の編纂は、宗派財政の窮乏や末寺の独立という、宗派が抱えていた困難を解決するために実施されたのである。