法然上人と高野山 ― 空白の25~42歳に数年山籠か(2/2ページ)
浄土宗西山深草派宗学院助手 長谷川浩文氏
谷を奥へ入るほど参道は急となり、曼荼羅堂が建っていたと思われる一番奥の整地された辺りは、最も急勾配な参道であった。江戸時代の古絵図の中には、曼荼羅堂のさらに奥に溜め池が描かれた古絵図があり、現在もこの溜め池は存在する。
高野山で曼荼羅と言えば、両界曼荼羅を意味するが、ここで言う曼荼羅は両界曼荼羅ではなく、浄土曼荼羅であることに注意が必要である。両界曼荼羅を祀るお堂は両界堂と呼ぶのに対し、浄土曼荼羅を祀るお堂は曼荼羅堂と呼んだようである。江戸時代後期になると、曼荼羅堂の本尊が浄土曼荼羅図であったため、曼荼羅堂は由緒と呼ばれるようになる。
曼荼羅堂には、遊行14代太空(1375~1439)によって九品堂という額が掲げられ、この額は清浄心院に現存している。この額の裏には、曼荼羅堂が阿曾宮神主友成(生没年不詳)によって建立されたと記されていて、友成とは先行研究によると延喜年間(901~923)に活躍した実在した人物である。この友成は、有名な世阿弥(1363~1443?)作の謡曲『高砂』のワキとして登場することも分かった。
『紀伊続風土記』によると、浄土宗西山深草派第2祖公空顕意道教(1239~1304)の著書『曼荼羅聞書』が、曼荼羅堂に存在した。鎌倉時代に活躍した顕意が、高野山の人々から浄土曼荼羅の第一人者として認識されていたことを物語っている。
1130(大治5)年、高野山は大きな転換点を迎えた。覚鑁(1095~1144)が高野山内に鳥羽法皇(1103~56)御願寺として、伝法院を建立した。1132(長承元)年、伝法院は一間四面から三間四面に改造され大伝法院と呼ばれた。
さらに、八角一間四面の堂舎密厳院も建立され、この年鳥羽法皇3度目の御幸を迎えた。その2年後1134(長承3)年、覚鑁は921(延喜21)年以来、金剛峯寺座主職が東寺長者によって兼帯されていたのを強引に元通りの住山人に改めた。その結果、従来からある太郎寺と呼ばれる勢力と覚鑁率いる新しく高野山に誕生した勢力との間で、150年以上にも渡る内乱へと発展した。
1168(仁安3)年には、「追撥傳法院僧徒七百餘人。破却坊舎二百餘宇」(『高野興廃記』「伝法院建立事」)とあるように伝法院僧徒は七百余人、坊舎は二百余宇までに発展した。
覚鑁が大伝法院から東西を眺めた様子を「西近得宝塔之本場、常住僧徒草庵比檐、東遙受禅林之奥院、仙来梵侶柴戸連窓」(『根来要書』「覚鑁申状案」)と述べているのは、大伝法院がちょうど金剛峯寺方と伝法院方の境界に位置し、大伝法院の西側に金剛峯寺方の宝塔並びに常住僧徒の草庵が存在し、一方東側に伝法院方の仙来梵侶の柴戸が存在したのである。伝法院僧徒七百余人や坊舎二百余宇とは、仙来梵侶の柴戸を指している。
大伝法院より東側に位置した谷々は、浄土院谷・往生院谷・蓮花院谷と呼ばれ、念仏聖たちの活動空間であった。現在、清浄心院には鎌倉時代後期に成立したとされる浄土曼荼羅図と當麻曼荼羅縁起が共に所蔵されているため、曼荼羅堂の存在は鎌倉時代後期まで遡る。
一方、大治5年に覚鑁が高野山に伝法院を建立して以降、曼荼羅堂の本尊であった浄土曼荼羅図が成立した鎌倉時代後期に至るまでの間、高野山では金剛峯寺方と伝法院方の間で内乱が断続的に行われていた。
法然が隠遁したとされる曼荼羅堂は当時、貴族ら有力檀越に支えられた院家ではなかったと考えられるため、内乱期間に曼荼羅堂の建立は不可能であろう。法然在世時、曼荼羅堂は存在し、高野山の内乱以前からのものである可能性が高い。
法然と高野山の関係は、これだけにとどまらずまだまだ存在しており、高野山における法然研究はさらに展開されるであろう。今後の研究に注目していただければ幸いである。