法然上人と高野山 ― 空白の25~42歳に数年山籠か(1/2ページ)
浄土宗西山深草派宗学院助手 長谷川浩文氏
高野山奥院には、あまり知られていないが法然上人(1133~1212、以下敬称略)の御廟がある。さらに、法然の伝承も高野山には数々存在する。調査した結果、法然の高弟である聖光房弁長(1162~1238)が『念佛名義集』の中で、顕真法印(1131~92)・法然上人・明遍僧都(1142~1224)が高野山に「掻き籠った」と述べていることが明らかとなった。法然が高野山に籠ったことは間違いないであろう。
『念佛名義集』に次のようにある。
(前略)又善導モ法花経浄名経ヲ讀シカトモ奉値道綽禅師今度出生死道ヲ習ヒ打置法花浄名経一向ニ念佛シテ極往生給フサレバ古ヘヨリ上人我朝日本國ニ道心深ク発シテ後世ヲナゲキ厭生死人人ノ中ニ比叡山大原ノ顕眞法印ト申セシ天台ノ和尚同ク黒谷法然上人光明山明遍僧都奈良ノ都ニ難有智者トノノシリシ人人高野ノ御山ニ掻籠給ヒシ是等ノ人人コソ於日本奈良ノ都平ノ間ニイミジク貴カリシ学匠智者達ニテ御座トモ年来ノ顕密ノ法門ヲ閣テ念佛ノ一門ニ入リ給フ事哀レニ貴ク目出度念佛ニテ候ゾカシ(後略)
弁長は、1197(建久8)年から1204(元久元)年までの8年間、法然の膝下で過ごしているため、この間に法然から直接聞いたのであろう。法然年表を見ると、1157(保元2)年から1174(承安4)年(法然25~42歳)の18年間は、法然の事績は全くの空白である(『別冊太陽 法然』平凡社、2011)。法然はこの間の数年間、高野山に籠ったと考えられる。
弁長は、高野山のことを次のように述懐している(『法然上人行状絵図』巻四六)。
(前略)つねの述懐には、「人ごとに閑居の所をば、高野・粉河と申あへども、我身にはあか月のねざめのとこにしかずとぞおもふ」と。また安心起行の要は念死念仏にありとて、つねのことわざには、「出るいきいるいきをまたず、いるいき出るいきをまたず。たすけ給へ阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」とぞ申されける。(後略)
弁長も高野山へ山籠した経験から、このように述懐したのであろう。
『法然上人傳絵詞(琳阿本)』には、法然が東大寺で説法をする場面を次のように記す。
春乗坊唐より観経の曼荼羅ならびに、浄土の五祖の影をわたして東大寺の半作の軒のしたにて供養あるべしと風聞しければ、南都の三論法相の学侶数をつくしてあつまりけるに、二百餘人の大衆をのヽヽはだに腹巻をき、高座のわきになみゐて、自宗等をとひかけてこたえんに、紕繆あらば耻辱にあつべきよし僉議して相待たてまつるところに、上人すみぞめの衣に高野ひがさうちきて、いとこともなげなる體にて、かさうちぬぎて禮盤にのぼりて、やがて説法はじまりぬ。(後略)
法然が高野ひがさを身につけていたというのも、法然が高野山に籠ったことを示唆している。
次に、法然が籠った場所を特定した史料が残っている(『紀伊続風土記』)。
法然上人碑
長谷観音祠より数間。参路の左方。石清水の南岸にあり。一間四方。寶形造の小堂。東に向ふ。正面格子戸。三方板壁。堂内に石の五輪塔を安す。高さ五尺餘。古老傳に。碑上の梵書并源空の二字は法然の直筆なり。此上人昔時當山に千日籠り。清浄心院谷の曼荼羅堂に棲息し。毎日奥院に詣て給ふ。(割注 参籠のこと太平記にも見ゆ。)(後略)
法然の御廟を解説した部分であるが、古老傳とあるため代々伝承として伝わってきたことが窺える。この伝承は、『太平記』にも記されているようなのだが、現在までのところ見当たらない。
清浄心院谷にあった曼荼羅堂は現在跡形もないが、跡地を調査した結果、清浄心院谷は山肌を削って切り開かれた谷であった。結構急な参道であり、屋敷の建っていた場所は、段々畑のように平らに整地されていた。