近代仏教の構造を捉える ― 近代日本の宗教≪2≫(1/2ページ)
上智大教授 島薗進氏
現代の伝統仏教の活動様態という点から話を始めよう。葬祭仏教が日本仏教の底力を支えているとも言える。曹洞宗寺院の出身だった歴史学者の圭室諦成が1963年に『葬式仏教』(大法輪閣)を刊行したとき、この考えが背後にあった。浄土宗の宗教史学者・宗教学者である伊藤唯真と藤井正雄が97年に『葬祭仏教』(ノンブル社)を編んだときも同様だろう。
それは確かにそのとおりである。葬祭において仏教寺院と僧侶が大きな役割を果たしてきた、そのことによる日本伝統仏教の強みは、今後もその力を発揮していくだろう。だが、葬祭仏教の強みを生かしつつも、その枠を超えていくことを望む声は高まりを増している。そして、実際、その方向への展開が進んでもいるのではないか。現代日本宗教の研究者として、私はそう考えている。
たとえば、東日本大震災の被災者受け入れや支援活動において、伝統仏教界は大いに存在感を高めた。東北大学の実践宗教学寄附講座が関わって臨床宗教師の研修も始まった。現代社会のさまざまな苦の現場で、医療やケアの場において、宗教者によるスピリチュアルケアの機会が広がっており、それぞれに研鑽し経験を積む例が増えていた。
また、自死念慮者・自死遺族、引きこもりの人々、高齢者や貧困家庭やホームレスの人々、外国人や障害者などの孤立しがちな人々へのケアの活動に宗教者が取り組む例も目立っている。現代社会のさまざまな苦の現場が、宗教宗派の枠を超えて取り組む宗教者の活動を促している。伝統仏教はそれに応答しようとしている。
他方、福島第1原発災害を契機に公共領域での仏教界からの発信が注目される機運も生じている。2011年12月に全日本仏教会が「原子力発電によらない生き方を求めて」という宣言文を公表したことは大いに注目された。仏教に基づき環境倫理や生命倫理の問題に発信する人々、発信する機会も増えていっている。
戦争と平和、歴史認識、差別と人権といった問題も同様である。小林正弥監修・藤丸智雄編『本願寺白熱教室』(法藏館、2015年)という書物の反響が大きかったことも思い起こされる。これらは仏教が社会倫理的な声を公共空間に響かせるということだが、前向きに取り組む仏教者が増えており、一般社会もそのことを積極的に評価する傾向が増している。
では、このような動きはどのような要因によって生じているのか。そして、それは近代仏教の構造という観点からすると、どのような変化として捉えることができるのか。
ここで生じる問いがある。近代仏教はどの程度まで葬祭仏教の枠内にとどまっていたと言えるのか。別の問い方をすると、戦後の葬祭仏教のあり方を「近代仏教」全体に投影して見すぎてはいないかということである。
たとえば、伝統仏教の社会福祉的な領域への関与が目立たなくなったのは、近代の中でもある時期以降のことではないか。近代仏教史の領域で意義深い仕事を重ねて来ている中西直樹は、著書『仏教と医療・福祉の近代史』(法藏館、2004年)の冒頭で、「近代以降、仏教者が医療救護の面で果たしてきた役割は、従来考えられてきている以上に大きなものであった」と記している。明治中期から昭和初期にかけては「社会事業」とよばれるような領域に積極的に関わっていく姿勢があり、かなりの成果を上げていた。
「その活動は、最初の資本主義恐慌が起こった一八九〇(明治二三)年ごろから次第に活発化し、医療サービスの量・質ともに充実して、今日の医療ソーシャルワーカー(MSW)に近い内容の事業へと発展する事例もあった」
中西氏はこう述べて、1930年頃までは活発に試みられていた伝統仏教の社会活動が、戦中戦後に衰退していったとする。では、どうしてそのような事態が進行したのか。
戦中戦後という時期区分だが、1930年代から70年代をひとまとまりとして見てみよう。この時期は国民の連帯意識がたいへん強く、国民の国家への期待が高かった時代と言ってよい。満州事変以後の戦時中は総動員体制が進み、その間に社会保障制度も大きく前進した。戦後は福祉国家への期待が大きく、社会的な弱者は国が助けるのが当然だとする考え方が強まっていった。