「拝金主義」にとらわれる現代社会 ― 伝統宗教が企業に理念を(1/2ページ)
城南信用金庫相談役 吉原毅氏
信用金庫は、お金の弊害を是正し、人々が本来の人間性を回復し、理想の社会をつくるために生まれた協同組合の金融部門です。
協同組合の起源は、1844年のイギリスで生まれた「ロッチデール・パイオニア(ロッチデール公正先駆者組合)」です。19世紀の欧米では、産業革命により資本主義が急速に拡大した結果、貧富の格差は拡大し、家族や地域の絆が失われ、道徳や倫理が崩壊するなど、人間らしい考え方や暮らしはどんどん失われていったのです。
その原因は株式会社でした。アダム・スミスは『国富論』で「株式会社が増えるのは国家社会にとって好ましくない」と厳しく批判しました。株式会社は不祥事件ばかり起こすため、設立には国会もしくは王室の許可を要するという厳しい制約が課されていました。その原因は、株式会社は利益を目的とした企業だからです。利益を目的とすると、なぜ不祥事件が起きるのか。それは、お金が人類の生んだ最大の妄想であり、幻想だからです。
そもそも、お金とは何でしょうか。たとえば古代メソポタミアのお金は小麦でした。その後、銀や銅が使われ、紙幣が発明され、最近では電子マネーも登場しています。経済学の教科書を読むと「貨幣機能説」といって「貨幣とは①交換機能、②価値保蔵機能、③価値尺度機能を果たすもの」と定義しています。
私は数年前に、あるアフリカの未開集落のドキュメントを見たことがあるのですが、貨幣が生まれる前の集落では、獲物が獲れると皆で平等に分けていました。皆で助け合うのが当然だったのです。しかし町から商人が来て店を構えると、村人は獲物を平等に分け与えることをやめ、商人に売るようになったのです。貨幣が登場することにより、人々は「自分さえよければ」という観念を肥大させ、①交換しなければものをやらない、②貨幣に換えて独り占めしよう、③自分以外の存在は数値で管理できる自分の道具に過ぎない、という「自己中心の妄想」に取りつかれるのです。貨幣が紀元前4千年前にメソポタミアに生まれて以来、市場と分業が発達し、生産力は飛躍的に拡大しましたが、人々の対立や悩みが拡大し、犯罪や戦争が増加しました。
紀元前500年は、実存主義者ヤスパースが「枢軸の時代」と名付けた時代です。釈迦、ソクラテス、孔子などの偉人が輩出します。ヤスパースは、素晴らしい哲学の時代、と称賛しているのですが、私は、貨幣が猛威を振るい、人々の悩みが頂点に達した結果、偉人たちが宗教や哲学をもって、その悩みと真剣に向き合った「末法の世」と考えています。釈迦は、自我というものは妄想に過ぎないと説き、ソクラテスは、お金と自由に狂ったアテネの市民たちの思い上がりを批判し、孔子は、仁と礼により自意識を抑え、徳による理想政治を説きました。彼らにとっての最大の課題は、お金の弊害の克服だったのです。
人類がこれまで築いてきた宗教や哲学、政治や法律、文化は、こうしたお金の弊害をコントロールして、社会のバランスを保とうという人類の営みです。たとえば文学でも、ディケンズの『クリスマス・カロル』、ドストエフスキーの『罪と罰』、夏目漱石の『吾輩は猫である』など、お金の弊害に対する警鐘を鳴らすものは、枚挙にいとまがありません。まさに「人類の歴史とは、お金との戦いの歴史」なのです。
お金の弊害が、急激に進んだのが、冒頭の18世紀のヨーロッパです。ハンガリーの経済人類学者カール・ポランニーは『大転換』という本の中で「産業革命などにより、これまで社会に埋め込まれてきた経済が暴走を始めた」と述べています。お金によって品物をやりとりする「市場」という「観念」が猛威を振るい、あらゆるものが「商品」として流通しました。この結果、人々の自意識、エゴイズムは猛烈に拡大します。他人を「商品」と考えて虐待することも始まります。貧富の格差に目をつぶり、「自分さえよければ、今さえよければ」という思想が生まれます。目に見えない神仏よりも、目に見える貨幣や物質を信じる「拝金主義」や「物神主義」が生まれます。これらを総称して「個人主義、合理主義、自由主義」と呼びます。