アンコール遺跡に向かった中外日報社員 角田素江(2/2ページ)
文化庁文化部宗教課専門職 大澤広嗣氏
カンボジアには、石造寺院として著名なアンコール遺跡が所在する。42(同17)年10月に、真宗大谷派では、同遺跡の調査のため、東本願寺南方美術調査隊を派遣した。この調査は、学術調査を通じて、大谷派が南方地域への進出を試みたものである。
調査隊は、隊長に画家の杉本哲郎を含む、計12人で編成されたが、隊員の多くは京都日本画家連盟(現在の京都日本画家協会)に所属した画家たちであった。連盟に属した角田も、隊員に選抜された。
中外日報社主の真渓涙骨は、角田から調査隊参加の申し出に快く了承した。涙骨は、次のように記している。
我社の角田素江も其同人〔調査隊のこと――引用者〕の一員として是非之に参加し時局の前に提供されたる南方の宗教事情の実査に我が特派員として当りたいと申出る。社は左〔たすけ〕らぬだに人手薄く日々の編輯事務にも相当困つてゐる折柄なれど、その壮図に同情して之に快諾を与へた。(「編輯日誌」『中外日報』42年2月22日)
アンコール遺跡に到着後、調査隊は、3班に分かれて、壁画模写、浮彫の拓本採取、写真撮影を行った。角田は、絵画班に属して模写を担当した。活動の合間に、角田は、「夕暮などよくスケツチ帖一冊をもつて、ジヤングルの中を分けて」点在する集落を訪問していたという(「仏印より泰へ」43年3月4日)。
調査隊の一行は、43年2月に、現地で解散式を行い、同年春には帰国している。
調査隊の活動時期に、角田素江は、中外日報の特派員として、現地での様子を報告していた。筆者が確認した限り、本紙に掲載された角田の署名があるアンコール遺跡及び南方関係の記事は、次のものがある。
42(昭和17)年=「瞑想アンコール・ワット」(全5回、9月26日~10月2日)、「印度支那〔インドシナ〕指して」(11月1日)、「南方美術調査隊より」(全7回、12月12~19日)。
43(昭和18)年=「湄公河〔メコン川〕溯行記 西貢〔サイゴン〕より東甫塞〔カンボジア〕の首都プノンペンまで」(1月1日)、「アンコールより」(1月6日)、「禊ぎの民族 カムボヂヤ人の生活」(全2回、1月16~17日)、「南方宗教工作とみいくさの原理」(全2回、1月19~20日)、「アンコール偶感」(2月7日)、「クメールの文化 カムボヂア雑感」(全2回、2月27~28日)、「アンコール鳥瞰」(3月2日)、「カンボヂアの劇と舞踏」(3月3日)、「仏印より泰へ」(全4回、3月4~24日)、「南方雑筆」(全35回、6月25日~8月21日)。
これらの記事の見出しを眺めただけでも、カンボジアの情景が伝わってこよう。
角田は、短歌をたしなんでいた。現地の模様を詠んでいたので、一部を紹介しよう(「アンコール鳥瞰」43年2月7日)。
民の幸とかかはりもなきおごりもて民は疲れて国亡びけむ
七頭のナーガに白く月さしてアンコールの石にわが影長し
後者は、遺跡の情景を詠み情緒あるものだが、前者は衰亡したアンコール王朝を念頭にしたものである。この2年後に日本は敗戦となる。
敗戦直後の虚脱の心境をつづった角田の短歌が、中外日報に掲載されている(「民われら」45年8月18日)。この時、アンコール王朝の亡国を想起したかもしれない。
その後、病気の静養のため退社したが、福見涙草によれば「ふとしたいたつきに急逝」したという(前掲、『激動の宗教界を回想』)。
角田の来歴には、未詳なことが多く現時点で判明した事項について述べてきた。角田は、画家で教員の経験があり、中外日報社に入り挿図を担当したという、興味深い経歴の人物である。角田のような人物が、活躍できたのは、やはり真渓涙骨の度量が広かったからである。
角田素江の存在を通じて、当時の中外日報の社風の一端を知ることができよう。