アンコール遺跡に向かった中外日報社員 角田素江(1/2ページ)
文化庁文化部宗教課専門職 大澤広嗣氏
2017(平成29)年、中外日報は創刊120年を迎える。本紙は、近現代の宗教界の動向を知る上で貴重な資料である。筆者は、過去の紙面を収めた中外日報のマイクロフィルムにより、研究上の恩恵を大いに受けてきた。
近年は、個人研究として、太平洋戦争当時の仏教者と仏教学者による東南アジアへの関与について調査してきた。その成果は、拙著『戦時下の日本仏教と南方地域』(法藏館、2015年12月)として刊行し、各章で本紙を引用した。
ある時、1943(昭和18)年前後の中外日報を見ると、角田素江という名前が頻繁に出てくることに気がついた。しかも、カンボジアのアンコール遺跡に関する記事である。調べてみると、真宗大谷派が組織した東本願寺南方美術調査隊に、中外日報の特派員として、角田は参加していた。
その後、調査隊の活動については、拙稿「アンコール遺跡と東本願寺南方美術調査隊」(拙編『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』アジア遊学第196号、勉誠出版、2016年3月)にまとめた。
角田素江は、重要な人物であったが、前稿のなかで十分に触れることができなかった。そこで、中外日報史の一断面として、論考の補遺を兼ねつつ、角田について紹介したい。
角田素江(本名・茂)は、1890(明治23)年に京都伏見にて生まれ、京都市美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)の絵画科にて学んだ(荒木矩編『大日本書画名家大鑑 伝記下編』同大鑑刊行会、1934年)。素江の読みは判然としないが、「そこう」または「もとえ」であろう。
卒業後は、京都市内の中心に位置する明倫小学校で図画を教えた。同校では、1917(大正6)年に、師範学校を出たばかりの塩見静一が校長として赴任した。時代は、大正自由教育の風潮が広まっていた。
塩見は、自由画運動に参加していた角田を招き、全校での図画の授業を担当させた。当時の小学校の図画では、教科書にある絵を手本に書いた。しかし自由画とは、生徒が自由に画題を選び、好きなものを書かせることであった。
教室での角田は、洋服は着ておらず、黒い紋付の羽織に袴という服装をしていた。手を袖に入れて腕組みをしながら、「それもいいなあ」と褒めたという。生徒の絵を評価するときは、この言葉以外は使わず、多くの生徒がこの言葉で褒められたのである。
明倫小で教えた生徒の一人に、後に医師で育児評論家となる松田道雄がいた。
松田は、「小学校五年のとき、……自由画の画家角田素江氏……に出逢うことにより、はじめて学校へゆくよろこびを知る」(松田道雄『花洛小景』筑摩書房、81年)と書いている。角田の指導により、画技を伸ばし、新聞社主催の絵画コンクールで、松田は3等に入選したのであった。
角田は、その後、中外日報社に入社した。時期と経緯は詳らかではないが、紙面を飾る挿画作り、記者として取材、紙面の編集を担当していた。
同社に勤めた福見涙草は、角田に兄事していた。福見は、中外日報社創刊者である真渓涙骨から一字をもらい「涙草」と名乗るなど、涙骨の意思を継承する人物といわれた。角田について次のように回想する。
私の生涯を通じて、この人ほどひきつけられた人はない。また随分世話になった……本来が画家だけに純情そのものといった人で、この人の非難の声をきいたことがない。……座談会があると、出席者の似顔をスケッチするのが素江さんの役だったが、それがどれだけか中外紙上に雅味をもたせたことか。(福見涙草『激動の宗教界を回想』福見印刷企画、2010年)
このように、角田の挿画は、紙面に情趣を与えていたのである。また、浄土真宗本願寺派僧侶の梅原真隆が、執筆した連載欄「ペン光る」では、挿絵は山口八九子、柴田晩葉、村田泥蛙が担当したが、角田もその一人であった。
41(昭和16)年12月の開戦後、日本は東南アジア各地を侵攻した。既にフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)は、40年から翌年にかけて、日本軍が武力進駐をしていた。