鈴木大拙没後50周年に寄せて ― 時代超え「大悲」の心読む意義(2/2ページ)
駒沢大教授 小川隆氏
しかし、その話に感じ入ったのは、個人的な懐旧のためばかりではありません。大拙博士が没して当時すでに20年。日本では生前の大拙を知る人の間ではまだ尊ばれていたかもしれませんが、当時すでに、私たち学生だけでなく、私たちが教わった先生たちの間でも、大拙の書物はほとんど読まれていなかったと思います。あんなのは学問じゃない、それより柳田聖山先生の本をよく読みなさい、そう言われた先生もありました。
ところが逆に、つい昨日まで禅とも大拙とも無縁だったはずの80年代の中国で、にわかに大拙の書物の翻訳が続々と出版され(台湾で出ていた訳本のリプリントも少なくなかったようですが)、それを若い知識人たちが目の前で貪り読んでいる。それは禅宗史研究を志望する20代なかばの大学院生だった私の目には、たいへん不思議な光景に映りました。
しかし、今、考えてみれば、それは不思議でも何でもありません。そう、伝統と近代、東洋と西洋、その相克が問題になるところでは、大拙の思索は常に新しい。新しいということは時系列上の流行り廃りのことではなく、本質を掘り下げた思索には、時代の常識の虚を突いて、いつでも人を原点に立ち返らせる力がある、そういうことではないでしょうか。
今年はその鈴木大拙博士の没後50周年の節目にもあたっています。忌日は7月12日。臨済禅師遠諱事業の活況には及ばぬものの、大拙についても、いくつか意義深い記念事業が行われています。たとえば、多摩美術大美術館で開かれている「大拙と松ヶ岡文庫展」(7月2日―9月11日)。期間中、何度か講演会やトークセッションが行われるそうです。また、ふだんは建長寺で開かれている「鎌倉禅研究会」も、7月だけは円覚寺に場所を移し、松ヶ岡文庫長の石井修道先生(駒沢大名誉教授)の記念講演と有志による墓参(東慶寺)が行われました。京都の日文研でも、年末に大拙に関する国際学会を開催すべく、計画が進行中と仄聞します。
出版物では、5月から7月にかけて、大拙博士の著書3点が新たに岩波文庫に収められました。『禅堂生活』『大乗仏教概論』『浄土系思想論』の3書です。『禅堂生活』は、禅僧の修行生活を活き活きと描いた英文著作の翻訳(横川顕正訳)。『大乗仏教概論』は大拙がアメリカで書いた事実上のデビュー作(佐々木閑訳)。『浄土系思想論』は大谷大で教鞭をとった大拙が、真宗の学者との交流を通じて深めた独自の浄土思想を説いた日本語の著作です。
禅・仏教一般・浄土の3方面の成果を示すとともに、この順序でそれぞれ、大拙の鎌倉円覚寺時代・在米時代・京都大谷大時代の経験と思索を代表するものともなっており、さらに各冊の解説も、円覚寺の横田南嶺管長、松ヶ岡文庫の石井修道文庫長、金沢鈴木大拙館の木村宣彰館長(大谷大元学長・名誉教授)という布陣によって、大拙ゆかりの各地そろっての貴重な記念となっています。
時代は遷り変わり、「伝統」対「近代」、「東洋」対「西洋」というかつての問題は、今や、「近代」対「後近代」、「ナショナリズム」対「グローバリズム」という新たな問題に拡大し、救いなく複雑化し流動化しているようです。不幸なことかもしれませんが、世界の「苦」について考えつづけた大拙の「大悲」の心を読む意義は、古びるどころか、今、いっそう新しくなっているように思われてなりません。