洛陽三十三所観音の再興に寄せて ― 衰退・再興の観音巡礼(1/2ページ)
京都府京都文化博物館学芸員 長村祥知氏
寺院は、その歴史においても、所蔵する資料においても、現代社会に果たす意義においても、様々な点で大変興味深い。
平成27(2015)年は、同17(2005)年に「平成洛陽三十三所観音霊場会」が結成されてから10周年の年であった。その名に「観音」を掲げていることからもわかるように、同会は、京都市内に所在する観世音菩薩を奉安する33の寺院・堂塔からなる。同会を構成する個々の寺院は深い歴史的背景を有し、特定の宗派に偏ることなく、総体として巡礼という信仰形態の対象となっている。
最近では「聖地巡礼」といえば、有名人の出演するドラマやアニメの舞台(となったロケ地・モデル地)を巡る人々の行動を指すことが多いが、本来「聖地」とは宗教的に神聖視された地を指す語であり、日本であれば寺社を巡り礼拝・参詣する行為こそが「聖地巡礼」だったはずであろう。少し前に「御朱印ガール」なる言葉が流行(?)したが、それ以前から、ひそかに御朱印めぐりを趣味としていた人も多いことと思われる。
寺院・神社等のいわゆる「パワー・スポット」複数を巡り歩くことで、所願成就や現世利益などの実現を祈念し、あるいは日常からの解放や歩くこと自体に楽しみを見いだす人々は、現代のみならず歴史上にもたくさんいた。西国三十三所観音や、弘法大師空海の旧跡とされる四国八十八カ所は全国的にも有名な巡礼霊場であろう。
とくに観音菩薩は、平安時代末期から確認できる西国三十三所をはじめとして、古くから巡礼の対象となりやすかった。西国三十三所のような広範囲ではなく、一定地域内の33の観音を巡礼するということも各地で行われた。埼玉県の秩父三十四所、関東地方の複数県にまたがる坂東三十三所は、西国三十三所と合わせて「百観音」巡礼の対象にもなっている。また近畿地方では滋賀県の近江西国三十三所がある。これら各地の観音巡礼札所は、室町時代に確認できるところもあり、江戸時代には定着していたようである。
京都においても、平安時代から7カ所前後の観音を巡礼するということが行われており、やがて33の観音を対象とする巡礼も行われるようになった。室町幕府奉行人の飯尾永祥が享徳3(1454)年に編んだ『撮壌集』に「洛中洛外」の三十三所観音が列挙されている。しかし、この数年後の応仁元(1467)年には、京都の中心も戦場となったことで有名な応仁・文明の乱が起こり、その後に続く戦国の世にあって、京都の三十三所観音巡礼は衰退したようである。
江戸時代になって、京都の三十三所観音巡礼は再興された。柳原紀光が編纂した歴史書『続史愚抄』によれば、寛文5(1665)年、霊元天皇の勅願により、再興されることとなったのである。このとき霊元天皇(1654~1732)は弱冠11歳(数え歳なら12歳)。どのような政治的・社会的背景のもとに再興が果たされたのかは未詳な部分もあるが、このときの再興は衆庶にも大きな意味を持ったに違いない。金戒光明寺には、文化4(1807)年に施主木村氏が奉納した吉田寺(現在は廃寺)の寺号額が伝わっており、そこには「洛陽六番勅願所」と書かれている。この勅願とは、霊元天皇による三十三所観音再興時のことであろう。
寛文の再興後、旅行者等が手に取った京都の名所案内記には洛陽三十三所の記載があり、いくつかの寺院の前には今も「洛陽○○番」の石碑が残っていることからすれば、巡礼者も多かったようである。
しかし、明治維新やその後の社会の変化のなかで、再び三十三所観音巡礼も衰退した。平成洛陽三十三所観音霊場会のお坊様方にお伺いしたところ、大正・昭和の頃にも洛陽三十三所を再興させようという動きはあったらしいが、色々と条件が整わずに、定着には至らなかったという。平成14年頃に、当時30歳代の僧侶数名が原動力となり、中堅・長老層の僧侶の理解を得て、平成17年にようやく再興に至ったのであった。