洛陽三十三所観音の再興に寄せて ― 衰退・再興の観音巡礼(2/2ページ)
京都府京都文化博物館学芸員 長村祥知氏
こうしてごく簡単に歴史を振り返ってみただけでも、洛陽三十三所観音が再興と衰退を繰り返してきたことがよく理解されよう。再興と衰退は、三十三所というまとまりだけではない。巡礼札所を構成する個々の寺院もまた、歴史のなかで廃絶や移転を余儀なくされたのであり、本尊と寺宝と寺地・伽藍が過去のまま現代に伝わっている寺院はわずかしかない。現代でも寺院の維持・運営は大変だとよく聞くが、歴史上においても困難は度々あった。
今日、世界中から大勢の参拝者を集める清水寺も例外ではない。清水寺では、応仁・文明の乱で伽藍が焼失し、伽藍再建のために僧侶が奔走した。勧進聖の願阿が再興を呼びかけた「清水寺再興勧進状」や、柱の代金を寄付した人物を書き上げた「清水寺再興奉加帳」、寺外での絵解きによって参詣を呼びかけた「清水寺参詣曼荼羅」(京都府指定文化財)といった資料が伝来している。
さきほど、吉田寺の寺号額が金戒光明寺に伝わっていると記したが、それは江戸時代の洛陽三十三所札所であった吉田寺が寛文8(1668)年に廃壊した際、本尊吉備観音および関連の宝物を金戒光明寺に移したからであった。
同じく江戸時代に洛陽三十三所札所であった金山天王寺は、如意輪観音像を本尊とし、その縁起を記した「金山天王寺縁起絵巻」を所蔵していたが、明治7(1874)年に廬山寺に合併された際、観音と絵巻等の寺宝も廬山寺に移された。
平成の洛陽三十三所再興にあたり、江戸時代に札所であった吉田寺や金山天王寺にかわって、それぞれの本尊を受け継いだ金戒光明寺と廬山寺が平成洛陽三十三所観音霊場の札所となっている。
両寺の事例から、本尊の移動とともに寺宝も継承されたことがうかがえるが、同様の例は地域の寺院に多々見られる。前近代から近現代にかけて宗派や本山・末寺の関係が変わった寺院も多く、ある寺院に、別の寺院にあるべき古文書や尊像・宝物等が伝来していたとしても、後世に移動してきた可能性が大いにありうるのである。逆にいえば、現存する寺宝類が一見不可解なものであったとしても、様々な角度から基礎的な整理を含めて調査を進めていくことで、それらの移動がいかなる関係性に基づくのか等の、現代とは異なる歴史上の寺院の具体相を解明する糸口となろう。
さて、平成の再興10周年を記念して、平成27年9月~11月には、筆者の勤務する京都文化博物館で「再興10周年記念 洛陽三十三所―観音霊場の再興―」と題する展覧会を開催させていただいた。三十三所というまとまりはもちろんのこと、個々の寺院についても、維持が困難であったことや、勧進による伽藍再建や本尊の移転等によって再興が果たされていたこと、それによって寺宝が今日に伝わったことが明らかとなる資料を展示した。周知の名宝はもとより、これまで寺外で知られていなかった資料にも注目し、その調査成果とあわせて展示することができた。
引き続き今年度にも「洛陽三十三所2」展の開催を予定している(6月11日~8月7日)。
観音巡礼という、京都の地域文化の重要な一側面を調査し、その認知度を高める役割を少しなりとも果たすことができたのであれば、まことにうれしく思う。
改めて、平成の再興と、その後の10年間に尽力された皆様の熱意に敬意を表したい。