自然災害と宗教者の役割 ― 支援者は想像力を働かせよう(1/2ページ)
龍谷大世界仏教文化研究センター博士研究員 金沢豊氏
死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。(池田晶子『あたりまえなことばかり』)
私は東日本大震災の被災地で被災者の居室訪問などの支援活動に関わる中で、多くの医療者や宗教者と出会ってきた。この5年間、上の言葉を噛み締めては飲み込み、拒絶しては認めを繰り返してきたように思う。
なぜならば、医療者や宗教者の発する言葉について問い直しつつ、宗教者である自身の言葉に細心の想いを込めてきたからだ。
しかし、細心の想いを込めた言葉であっても、すべての人に是認されるわけではなく、時には相手の意に沿わない表現を投げかけてしまった経験もある。
これで完璧という言葉は、私という迷いの存在が発語する限りあり得ない。言葉は人と人との関係性の上で変化する生き物のようなものだと思うからである。
したがって、医療や宗教の上位に言葉を置く池田晶子の考え方に新鮮味を覚えると同時に、冒頭の池田の言葉に対する疑いも存在し続けている。本当に医療は、宗教は「絶望の底にある人」を救えないのだろうか、と。
九州中部を襲った激震は、多くの人の生活を一変させた。本震から1カ月近くたっても情報は錯綜し、人の流れも混濁している。地域によって被災の度合いが異なり、同じ熊本県でも、大分県でも状況が違うといった声があることは想像に難くない。
おそらく、避難生活を強いられている困難な状況の方も、普段通りの生活を続けている方もおられる。もちろん、一見普段通りでも誰にも言えないような思いを持ち苦しんでいらっしゃる方もいるだろう。いつ起こるかわからない余震に不安を抱き、地震自体が嘘であって欲しいと思っている遺族の方々が多く存在している。
ただ、直接被害を受けなかった地域から九州の被災地を伺うと、途方もなく絡み合った情報の下に被災された方々の生活があるように感じる。これは、東日本大震災直後の被災地でもそうであったように思う。
だからこそ、被災地に出向き、生の声を聞き、ネットワークを構築することは重要で大きな効果があると思う。そこから支援の糸口を見つけ出し、刻々と変わるニーズに応えることができる。
被災された方のために、各教団は支援の手立てを作り、個々の宗教者も間断なく動いている様子は報道の通りである。しかし、やみくもに動けばいいというものでもない。そこで東日本大震災からの教訓を踏まえるため、支援の現場で感じたことを少し振り返ってみたい。
緊急支援時に必要なことは「怪我をした人には応急手当」「行き届きにくいところへの物資の配給」「小さな寄付ならば身近な人や組織に」という基本的なことである。非常にシンプルなことなのだが、混乱が表面化するのも実はこの時期である。
それは、同じ方向を向いているはずの支援者同士の足の引っ張り合いであり、些細な配慮の行き違いなどである。それを解決するには、苦悩の要因を見極めてから支援をスタートすることであり、目的を明文化することである。
そうすれば、支援者同士が同じ被災された方の方向を向いている意識をともに持つことができ、役割分担を明確にすることができれば余計な軋轢は生まれない。
また、次に起こり得る事象として注意したいのは、非当事者の思い込みが刃に、先入観が暴力になる可能性があるということだ。
例えば「自然災害はいつどこで誰に起こり得るかわからない。だから日頃の生活から災害に備えましょう」。防災や人的被害を抑えるための減災の重要性がこういった言葉で説かれている。もちろん、それは一面的には正しく否定のしようがない。
しかし、それだけでは被災された方は「備えを怠った人たち」という理解になるのではないかという疑問も残される。つまり、外部から防災の重要性を説けば説くほど、被災された方にとって後悔の念のような二次被害が広がるという側面があるのだ。
東北の三陸沿岸部では仮設住宅から次の住まいへと移行が進む中で、引っ越して安心したという方と、引っ越したものの不安で仕方がないと訴えてこられる方もいる。人々の思いは本当に多様で「仮設住宅を離れることができて安心だろう」というような先入観から生まれる軽薄な言葉が被災者を傷つける事実があるのだ。