自然災害と宗教者の役割 ― 支援者は想像力を働かせよう(2/2ページ)
龍谷大世界仏教文化研究センター博士研究員 金沢豊氏
震度7を記録し、1500棟以上の住宅が全壊、半壊した熊本県益城町では発災から1、2カ月の間に仮設住宅2千戸を目標に整備するという。
ただ、いくら月日がたとうとも、いくら建物が再建されようとも、癒えない心が存在し続けることは、東日本大震災で得た一つの教訓だ。そしてまた、助けを求める人がいる一方で、「静かに暮らしたい」方も確実にいらっしゃるだろう。
支援者は、持てる全ての想像力を使って活動をして欲しいと思う。実は、そこにこそ宗教者が注意を払うべき心があるようにも感じている。
いま、世界の人々が日本の被災地に心を向けてくれている。自然災害は世界のどこでも起き得る普遍的なものだからだ。そして多くの方が向けてくれている心は被災された方の力になる。
「多くの人が被災地のことを想ってくれている。その事自体が支えになる」。東北の被災地でそのような声を聞いたのも2度や3度ではない。今後、心配や祈りを超えて二次被害が拡がらないよう努めることは、いまの私たちにできることではないだろうか。
おおよそ、メディアを通じて大きく響くのは極端な声だ。それによって右往左往することはもうやめよう。想像力を持って、言葉を練っている自覚がないのなら、TwitterやFacebookに発信や投稿などをする“軽薄なメディア”になることをやめよう。それらを通してネット情報を拡散する前に、もう一度その情報を見直してみよう。身の丈を自覚して行動し、むやみに他者を巻き込むことはやめよう。
せめて、そのような意識を持って生きることは、過ちを繰り返さず、教訓を生かすことにつながる。ひょっとすると、もうすでに「支援」なんて懲り懲りだと感じている方もいるかも知れない。
しかしそのように思ってしまう「支援」は誰のための支援なのかもう一度考えてみよう。究極のところ誰のための行動なのか、もう一度考えよう。もし自分のためであるならば、自分が活躍する場は被災地の他にあるはずだ。緊急支援が必要な被災地は、支援者が輝くための場所ではないという当たり前のことを知ろう。
日常の生活、活動、仕事を犠牲にして新たな活動ができる人は限られている。身の回りを大切にせずして、自分の感知できる範囲を超えた人や物事を大切にすることは難しい。
何より、ボランティア活動は尊いからこそ無理をしてしまう。志は大切だが、思いだけでは身を滅ぼすことがある。だからあえて冷静に、できることは何かを考える時間を作って欲しい。
それは一人より複数人の方が好ましい。可能であればアドバイザーを招くのがベストだろう。客観的に見る要素を含みつつ、できることと、必要なことを発災からの時間軸を作り考えて欲しい。その際に、もし自分が被災したらどうして欲しいかの視点も忘れずに入れておきたい。
その上で、自然災害における宗教者の役割は、今後一層問い続けなければいけない課題である。改めて宗教(仏教)が人を救う可能性はどこにあるのだろうか。
冒頭の池田晶子の言葉への応答を自分なりにするならば、宗教者は、祈ることを目的として、祈るだけで満足しないように注意をしたい。おそらく、祈る、念じることから始まる活動があるのではないだろうか。
阿弥陀如来の救いにあずかっている自分自身にできる精一杯のことは、言葉にならない出来事を前にして、言語活動を諦めないということである。
押し広げていうと、真理の媒介者である宗教者は、悩みながらも言葉を大切に発していくことが一つの役割になるのではないだろうか。なぜなら、私にとっての仏教が言葉を大切にしてきた宗教だという確信があるからである。
言語活動に依拠することなくして、勝義諦(最高の意義、真理)は説示されない。(龍樹『中論頌』第24章第10偈)
相手への想像力を持った宗教者の言葉は、絶望の底にいる人を救うことができると考えている。