神名帳と修正会・修二会 ― 神々を勧請する年頭行事(1/2ページ)
國學院大准教授 大東敬明氏
東大寺修二会(お水取り)は、大仏殿の東側の高台にある二月堂で行われる。
この法会を聴聞にうかがい、僧が「神名帳」(『二月堂神名帳』)を読誦して、神々を勧請する声を聴いていると、「神社は神道や神々、寺院は仏教や仏たちとのみ関わる」という理解は、必ずしも正しいものではないことを実感する。神々は神社にのみ座すのではなく、寺院の法会でも勧請されるのである。
日本史の中での人々と神々との関わり(神道史)を考える上では、寺院や法会の中の神々についても知る必要がある。
本稿で取り上げる「神名帳」は、神々や神社の名を書き上げたものであり、名簿として用いられるもの、神々を勧請するために読誦されるものなど、様々な種類がある(三橋健『国内神名帳の研究』)。現在でも、近畿地方を中心とするいくつもの行事で「神名帳」は読まれている。
東大寺修二会は、その代表である。
東大寺修二会の本行は、現在では3月1日未明から15日未明まで行われている。かつては旧暦2月に行われていた。修二会とは、「修二月会」のことで、2月に修する法会という意味である。
この法会は、二月堂本尊の十一面観音に対して罪を懺悔する「十一面悔過」をその中心とし、1日に6回(日中・日没・初夜・半夜・後夜・晨朝)の行が行われる。このうち、初夜の上堂の際、法会に出仕する僧(練行衆)は、大きなたいまつに導かれて、二月堂下の参籠宿所から二月堂へ登廊を登る。このたいまつは、練行衆が堂内へ入った後、二月堂の欄干で振られる。このためこの法会は「おたいまつ」の通称で親しまれている。また、12日深夜(13日午前1時すぎ)、二月堂下の閼伽井(若狭井)から本尊に供える水をくむ(水取り)。「お水取り」の通称は、これによる。
東大寺修二会が十一面悔過を中心とすることは先述の通りだが、これに付随する行事の中には、神々や神道に関わるものもある。
まず、本行が始まる前日の2月末日には、練行衆の中で除魔や結界などを司る咒師により「大中臣祓」が行われる。これは、心身を清浄にすることが求められている練行衆に対する祓である。なお、練行衆は二月堂へ登る前に、小さな御幣を用いて各自で祓を行う。
法会が始まった3月1日の夕方と法会が終わった15日未明には「惣神所」が行われ、二月堂を取り囲むように鎮座する鎮守社(飯道社・遠敷社・興成社)に練行衆が参拝する。
そして、毎晩、「神名帳」が読まれ、全国各地の神々が勧請される。
東大寺修二会の起源について、院政期に成立した『東大寺要録』二月堂の項に記述がある。そこでは、実忠和尚が天平勝宝4(752)年に始めたことをまず述べ、その後に、「水取り」の起源を次のように記す。
実忠が十一面悔過を行っている間、初夜の終わりに神名帳を読んだところ、全国の神々が二月堂に影向し、福祐を与えたり守護したりした。しかし、若狭国の遠敷明神は、魚を捕っていたために遅れて来た。法会をありがたいと喜んだ遠敷明神は、閼伽の水を奉ることを約束した。すると、岩から黒白の鵜が飛び出し、その跡に水が充満した。このため、東大寺修二会では、2月12日(旧暦)の夜に練行衆が、この水をくむ行事を行っている。
このように神名帳の読誦は、東大寺修二会「水取り」の縁起と結び付いている。
この修二会で、いつから神名帳が読誦されていたのかは明らかではない。広く修正会・修二会でも同様である。
しかし、東大寺修二会の日記である『二月堂修中練行衆日記』大治3(1128)年条には、出仕した僧のうち、2人に「神名帳」と注記がある。ここから12世紀前半には行われていたことが分かる。