人体(いのち)の商品化を問う ― HIV訴訟、和解から20年(2/2ページ)
ノンフィクションライター 島本慈子氏
その当時、私はHIV訴訟をめぐる人間ドラマを描いた『砂時計のなかで』(河出書房新社刊)を執筆中だったが、関係者に宛てて、こんな手紙を書いた。
「安部英逮捕後の報道は異常でした。安部氏の責任を追及することは当然ですが、『安部氏さえいなければ、犠牲者はひとりも出なかったのだ』と言わんばかりの報道は事実を曲げています。ことを単純化せず、複雑な真相を複雑なままに見据えることが、本当の薬害再発防止になると私は思っています」(96年12月10日付)
現在も、特に極端に走ったテレビ報道の影響で、「83年に研究班長になった安部氏がひとりで全員を感染させた」と思い込んでいる方がおられるだろう。
だがそれは事実ではない。たとえば東海地方のある県立病院で患者の保存血液を検査したところ、82年の時点で11人がHIVに感染していた。82年は、米国CDCが血友病患者の免疫不全を初めて発表した年である。
では、その人たちの感染は回避できない天災だったのか? いや、回避する方法はあった。75年に出された血液問題研究会の具申。あの具申に沿って血液製剤が国内の献血で作られていたら、彼らの感染はなかっただろう。
血液は自然の一部。自然には「人間が把握できない何かが潜んでいる」という畏れ。宗教にも通じるこの畏れの感覚は、次の薬害を防ぐためにも、常に想定外のことが起きる自然災害などに備えるためにも欠かせない感覚だと思える。
HIVに感染した血友病患者は病気に苦しみ、差別と偏見に苦しんだ。HIVの感染力はごく弱く、普通の日常生活ではうつらないのだが、エイズを恐れる世間は、HIV感染者を恐れた。
病院では診療拒否が相次いだ。上司に感染を告げたとたん、解雇された人がいた。店の客足が途絶え、暮らしに行き詰まった人がいた。
訴訟の原告だったアキラ(仮名、故人)は、医師にHIV感染を告げられたとき、「がんだったら良かったのに」と思ったという。「がんは人にうつらないから自由に言える。僕らは何も言えない」
病者への差別と偏見がひどいゆえに、被害者が被害を語ることもできない。この現実を見た石田さんは法廷でこう訴えた。
「そこには打ち震えている感染者、つまり人間がいる。/血友病患者2千人の全面解決もさることながら、難病と共に生きる社会を作っていくことが全面解決ではないか」(92年2月13日、大阪地裁、石田吉明証人尋問)
この尋問の後、自ら予告していたとおり、石田さんは裁判の決着がつく前に亡くなった。HIV訴訟原告中の死者は、昨年10月時点で693人になっている。
人体を商品化しない――この理想は実現されたのだろうか。
血液製剤に関しては、2002年に血液法が制定され、献血による供給がほぼ達成されている。しかし、あたかも血液に代わるかのように「儲かる物品」として登場したものがある。生殖細胞である。
留学中の米国で、報酬2500ドルで卵子を提供する日本人学生。1回3万円で精子を提供する男性。契約金150万円で精子バンクに登録し、リストを見て精子を選ぶ女性。新聞にはこんな事例が山ほど出てくるが、共同通信の次の記事を見たとき、私は思わず薬害エイズの原点=HIVの混入したプール血漿を連想してしまった。
・06年。米国で5人の子どもが稀な血液病を発病。医師が調べると、5人とも、精子バンクの同一ドナーから生まれていた。・09年。米国で精子バンクの同一ドナーから生まれた子ども9人が同じ心臓病と診断された。生殖細胞の商品化は将来に何を生み出すのか? それについて考え抜き、警鐘を鳴らすことは、哲学者そして宗教者の重要な仕事ではないだろうか。
HIV訴訟の和解から20年。「裁判の終わりを見ることはできない」と知りながら立ち上がった彼らが問いかけたことは、いまも私たちの問題として目の前にある。