人体(いのち)の商品化を問う ― HIV訴訟、和解から20年(1/2ページ)
ノンフィクションライター 島本慈子氏
振り返れば、出会いからとても長い時間が流れた。取材のために石田吉明さんを訪ねたのは1989年8月3日。真っ青な空が輝いていた夏の日の午後で、玄関で声をかけると、背の高い男性が少し足を引きずりながら現れた。
それは薬害エイズ事件――血友病患者が治療に使った血液製剤でHIV(エイズウイルス)に感染した事件――で、国と製薬企業の責任を問うHIV訴訟が大阪で始まった直後だった。私が取材した時点で、原告は石田さんを含めてまだ9人。彼は血友病を語り(足を引きずっていたのは出血の後遺症だった)、HIV感染を知った日の衝撃を語り、免疫を司るヘルパーT細胞の数が「砂時計の砂がサラサラ落ちるように」減っていく現実と、それとともに近づいてくる死への恐怖を語った。そして訴訟の目的をこう語った。
「決着がついたとき、原告は一人もいないかもしれない。だからこの裁判は、僕らの世代じゃなくて、100年くらい後の人たちへのおみやげ。ずっと後の世代のことを考えて、いま『血液』を問い直す、それが我々の裁判です」
血液を問う――それはすなわち「人体の商品化の是非を問う」ということ。4年後に再び取材したとき、石田さんはこうも語った。
「血液って臓器のひとつ。献血で集めたものを、感謝しながら使わせてもらわんとあかんのに、血液が商売の道具、儲かる物品に換えられて、そのツケを払ってるのがいまの僕ら」
HIV訴訟は89年5月に大阪、10月に東京で提訴され、96年3月に和解が成立した。改めて事件を振り返ると――。
血友病患者は、出血を止めるために血液凝固因子製剤を使う。その原料はほとんどが売血だった。
売血のはらむリスクは大きい。まず献血に比べ、売血は病原微生物に汚染されている可能性が高い。また売血者は低所得層に偏り、貧しい人々が頻繁に血を売って健康を害し、さらなる貧困へ追い込まれていくという問題もある。
その実態を踏まえて、75年4月17日、厚生大臣の私的諮問機関である血液問題研究会が「医療に使う血液は、血液製剤を含めて、すべて献血でまかなうべきである。その体系を早急に確立しなければならない」と具申した。ところが13日後、その具申を覆す事態が起きる。
4月30日、ベトナム戦争が終結。第2次大戦のときに開発された血液製剤が、実戦で大量に使用されたのがベトナム戦争だった。その戦争が終わったとき、米国には大小の血液産業が林立しており、戦場という大消費地に代わるマーケットが必要だった。
翌76年、日本の厚生省は売血によるプール血漿(人の血漿を何千人何万人分も混ぜ合わせたもので、血液製剤の原料となる)の輸入を承認。米国の売血が日本へ流れこんできた。だがそのとき、米国内では未知のウイルスが活動を始めていたのである。
それはまず、男性同性愛者の免疫不全として報告された(81年6月5日、米国CDC『MMWR』)。次に麻薬中毒者、麻薬中毒者と性的関係のあった女性、血友病患者……。全員が免疫不全に陥っていたが、原因がわからない。日本では「『免疫性』壊す奇病、米で広がる」と報じられた(82年7月20日、毎日新聞)。
この奇病にエイズという名前がついたのが82年7月27日(米国公衆衛生局の会議)。フランスと米国の研究者が原因ウイルス発見を公表したのが83~84年。ウイルス名がHIVとして統一されたのが86年。
そのときには血液製剤による感染が世界中に広がっていた。HIVに感染した日本の血友病患者は約2千人と言われた(現時点の調査では約1500人)。
血友病患者がHIVに感染していく過程で、製薬企業には許しがたい情報隠しがあり、国は対策を怠って被害を拡大させた。激しい裁判闘争の結果、国と企業の責任が認められて和解が成立した。
しかし、薬害エイズ事件で最も注目を集めたのは血友病治療の指導的立場にあった故・安部英医師だろう。和解の成立後、安部氏は刑事告発された。