悲しむ力の持続と「人間の復興」 ― 東日本大震災と宗教の働き(1/2ページ)
上智大教授 島薗進氏
東日本大震災の支援活動に携わってきた宗教関係者のお話をうかがう機会をもつよう心がけてきた。2011年4月1日に立ち上がった宗教者災害支援連絡会(宗援連)では、情報交換会やシンポジウムなどを続けている。災害後の追悼や宗教者による支援について報告している書物も読みごたえがある。そうした経験を通して、日本の宗教史にとって東日本大震災がもつ意味を考えてきた。
早くも5年の歳月が経過した。マスコミで被災者の悲しみの声を聴く機会は減ってきている。しかし、あたり前のことだが、災害で命を落とした方が帰って来られたわけではない。もとの家に帰れない人も多い。以前のような仕事ができなくなった例も多い。ふるさとが喪われたことによる心の痛みは、さほどやすやすと和らぐものではないだろう。
福島県南相馬市鹿島区の港行政区は、津波による壊滅的な被害から5年を間近にした16年2月21日、再建を断念して解散式を行った。1905年から干拓が行われ入植が進み、震災前には37世帯およそ130人が暮らしていたという。解散式には住民約50人が集まり、全員で「ふるさと」を合唱したという。住民はそれぞれに新たな居住地で生活再建を図っているが、環境も人間関係もすっかり変わり、今後も試練のときが続くことだろう。
実際の政治では経済的な復興が重視される。国や県は経済が活性化することにより、地域に人が戻り、地域社会が立ち直っていくという視点からの支援を重視する。そこで、経済的な次元から「復興」を見ると、5年間の支援によってかなり立ち直ったように見えるかもしれない。しかし、人々の心の中では悲しみ苦しみが続いている。喪われたものは多い。新たな生活を支える人的・物的な環境が整い、心の痛みも癒えたとはなかなかいえないだろう。「物財の復興」ではなく「人間の復興」の行方を見失わないようにしたいものだ。
被災者の中でも原発被災者の場合、報道されにくい困難が続いており、苦悩や怒りは重い。2014年6月の宗援連情報交換会では、木ノ下秀俊氏(真宗大谷派現地復興支援センター、南相馬市)による「それぞれのふくしま」と題した話をうかがった。真宗大谷派原町別院を本拠とする木ノ下氏だが、震災当時は原発に近い富岡町におり、人々とともに飯舘、福島、米沢、飯豊と避難した。そのとき頼りになる情報はメディアを通しては得られなかった。「何を信じればいいのか?」、以後も疑い続けている。
原発関係者からとにかく逃げるようにと言われたが、後で事実そうだったと分かった。行政とメディアの情報はあてにならないというその時の状況は今も続いている。放射能の情報も同様。汚染で出荷できないかもしれない稲を作るのかどうか。行政によしと言われても確かな情報はない。だから皆がそれぞれに判断しなくてはならない。その判断は多様にならざるをえない。それをお互いに認めて生きていくほかない。「それぞれ」を尊ぶことが日々必須のことだ。ところが「福島」とか「被災地」で一括されてしまう。「ひとりひとり」が尊ばれていない。
雁屋哲氏のコミック「美味しんぼ」で放射性物質による鼻血が話題になったことについてはあらまし以下のように語った。「鼻血は避難所で見聞きしたことがある。よく言ってくれたという思いがあるが、案の定つぶされた。放射能のほの字も言えないような状況が福島県内にある。心配があっても言えない。黙ってしまうしかない。心配していないわけがないが、口に出すと白か黒かになってしまう。対立しないためには言えない。そこで、誰にも言えず不安を抱えるようになっていく」
木ノ下氏は長く続くことになる困惑を語った。「宗教者として何かをするか? 初めにはそういう意識はもてなかった。人が必要としていることに応じていくことでせいいっぱいだった。今はどうか。『人はひとりひとりなんだ』ということを踏まえて、ひとりひとりの人間に会っていくこと。そしてできるだけのことをしていくこと」