東日本大震災の復興支援から学んできたこと(1/2ページ)
高野山大教授 井上ウィマラ氏
はじめて東日本大震災の被災地に赴いた時、「何かできることがありますか?」という問いかけに「太鼓がほしい」という答えが返ってきた。50年ほど前のチリ地震津波でも大きな被害が出た。その復興過程をテーマに「津波復興太鼓」という楽曲を作って伝えてきた。津波の翌日、太鼓隊の子どもたちの顔を見て「ああ、あの曲を伝えてゆくことができる」と思ったのだが、肝心の太鼓がみんな流されてしまったというのだ。
高野山真言宗の協力を得て9月の末には太鼓を寄贈することができ、エグザイルや三味線の吉田兄弟など、慰問に訪れるミュージシャンたちとのコラボレーションに使ってもらうことができた。「こんなことがあった後だから、最初は太鼓をたたいてよいのか戸惑ったが、打ってみると涙が流れてきて、止まっていた時間が流れ出したような気がした」という感想を語ってくれた隊員さんがいた。
昨年、その太鼓隊の皆さんが開創1200年記念でにぎわう高野山を訪れて災害物故者追悼法会で「津波復興太鼓」の奉納演奏をしてくださった。「一生の思い出になりました」と話してくれた彼らの姿が忘れられない。
海を望む高台に設置された避難所で静かで美しい海を見つめていた時のこと、「あの時も、次の朝はこんなふうにきれいな海だった。あんなことがあったのに、次の朝はこんなふうに静かで……」と話しかけてきてくれる人がいた。そのギャップの中で、多くのものを失ってしまった。「いつもはこんなふうにきれいで静かで恵みをくれる海が、あんなふうに牙をむくことがある……」。ほぼ半世紀に一度くらい大きな津波に襲われるこの地の人々は、そんな海と一緒に暮らしてきたのだ。「津波てんでんこ」という言葉は1990年の津波サミットにおける造語だというが、こうした環境を生き抜いてきた人々の悲しみに裏打ちされた生きるための智慧が込められているように感じられた。
海を見つめながら、ふと沖縄のひめゆり平和祈念資料館の語り部さんが語ってくれた、死体の打ち寄せられた沖縄戦時の海辺の情景を思い出した。彼女は、それからしばらくのあいだあんなに好きだった海を見たいとは思えなかったという。日本が第2次世界大戦後の復興過程でやり残してきたものがある。今回の東日本大震災の復興は、それをやり直すための最後のチャンスなのかもしれない。そんな思いが心をよぎって、長期的な視点から復興支援に関わることの必要性を身に染みて感じた。
私は発災直後から複雑性悲嘆の研究者らとともにJapan Disaster Grief Support プロジェクト(以下JDGS)の立ち上げに加わり、インターネットによる情報提供を中心として「被災地の外部から被災者を支援する皆様に」というリーフレットを作成・配布して「しないほうが良いこと」や「気をつけてほしいこと」に関する諸注意を促すなどの活動を始めていた。これは、一般的な善意によって被災した人を傷つけてしまうことがあるという過去の学びを生かすための試みであった。読んだ人たちからは「日常生活においても心がけた方がよいことだと思った」などの感想を頂いたが、実際に被災地を訪問して目の当たりにした状況は現実感を失いそうになってしまうほど衝撃的なものであった。
複雑性悲嘆とは、突然の予期せぬ死や遺体の損傷や行方不明などにより、一般的な悲嘆より複雑化・長期化して専門的治療を必要とする悲しみをいう。一般的な悲しみの複雑さは親しい関係性における愛憎などのアンビバレンスによるものであるが、複雑性悲嘆においては悲しみを自覚・表現できないことにより緊張が身体症状となり、自己存在が蝕まれてゆくような感覚を生じさせる。
複雑性悲嘆は、うつ病やPTSDとの重なり合いの中で理解されるべきものである。うつ病は攻撃性が内攻して自我感情が低下することによって引き起こされ、PTSDは恐怖と無力感によって自我機能が障害されてフラッシュバックや回避や過覚醒が引き起こされ世界観も変化してしまう。悲しみが複雑化すると、心はこのように揺れ動きながら苦悩するのだ。
また、PTSDの治療が終わってからでなければ死別体験や悲嘆のケアに移ることはできない。悲しむ時に思い出さなければならない情景が、恐怖のあまり凍り付いてしまっていて思い出せないからである。こうした情報は、つらい体験をして救いを求める人々に接する機会の多い宗教者も知っていた方がよいであろう。