千年の歴史超える長谷信仰 ― あらゆる願い成就する霊験仏(1/2ページ)
大阪大谷大准教授 横田隆志氏
真言宗豊山派総本山長谷寺(奈良県桜井市)は、日本の代表的な観音霊場として古来著名である。長谷寺の御本尊である十一面観世音菩薩は、現世・来世の願いをかなえる霊験仏として篤く信仰され、その歴史は千年以上に及ぶ。今年2月から3月にかけて、あべのハルカス美術館(大阪市)で「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」が開催されるなど、長谷信仰は現在も注目を集めている。
上下2巻52話収録
長谷寺では鎌倉時代、『長谷寺験記』という書物が編纂された。上下2巻、上巻19話、下巻33話の計52話からなる書で、長谷寺の十一面観世音菩薩に祈願をよせ、様々な御利益を得た人々の話が記しとどめられている。
同書上巻には、長谷寺建立の御由緒(第二話)や御本尊の頭頂部に据えられている頂上仏面の霊験譚(第十話)、長谷寺仁王門から本堂に至る登廊(第十五話)、登廊を登りきったところにある未来が鐘(第十四話)など仏像や建物等に関わる由来などが記される。境内に掲げられる案内板のいくつかは、本書に基づいて記述されたものである。
下巻では、長谷寺の御本尊に関する話に加え、長谷寺以外の寺院建立や仏像造立についての話も収められる。長野市にある新長谷寺や大阪府枚方市の久修園院(第一話)、西国三十三所第22番札所の総持寺(第十三話)、興福寺菩提院の児観音(第二十二話)などの話がそれで、長谷信仰の広がりがそこに反映している。
『長谷寺験記』を読むと、ありとあらゆる願いの成就が祈られていた様子がうかがえる。皇位継承の望みがある一方で、貧しい身の上からの救済、病気回復、極楽往生、子の誕生、亡母の追善など、当時の人々が何を望み、何を幸せと考えていたのか、その息づかいが伝わってくるのである。中には、誰も風車を作ってくれる人がいなかったので、それを与えてくれるように祈った少年の話(下巻第二十九話)などもある。
後伏見上皇が願文
鎌倉時代、長谷寺では実際に様々な祈願がなされた。例えば、後伏見上皇は皇子量仁親王(後の光厳天皇)の立太子・即位を祈願する願文を伊勢神宮や長谷寺に送った。その一通、1326(正中3)年3月25日後伏見上皇自筆願文案(書陵部蔵伏見宮家文書、鎌倉遺文二九四四七号)で、後伏見上皇は、所願成就するならば今年中に「観音品三千三百三十三巻」を長谷寺の御宝前で転読するという願を立てている。
一方、北伊勢に拠点をおく藤原実重なる人物が、亡母追善供養のため、毎月18日に観音経を読誦するよう長谷寺僧に委嘱した記録が残されている。その期間は、1228(安貞2)年から1234(天福2)年に及ぶ。足かけ7年、途切れることなく、実重は追善供養の費用を遠く北伊勢から長谷寺に送り続けた(三重県四日市市善教寺蔵阿弥陀如来立像・胎内文書「作善日記」。『四日市市史』第十六巻別冊に本文紹介)。
皇族から庶民まで、社会の幅広い階層から、長谷寺の御本尊は篤く信仰されたのである。
『長谷寺験記』の話は、その多くが『法華経』観世音菩薩普門品の教えと関わっている。一例をあげれば、遣唐使の吉備真備が唐で野馬台詩という難解な詩を読むことを求められたとき、長谷寺の観世音菩薩が小さな蜘蛛に変化し、難題を出した唐の人々にわからないように真備の窮地を救ったという話がある(上巻第一話)。野馬台詩は詩の第5行の6文字目を起点として、迷路のように読み進む特殊な詩であるが、観世音菩薩が変じた蜘蛛は字を一つ一つたどることで真備に詩の読み方を教えたのである。