千年の歴史超える長谷信仰 ― あらゆる願い成就する霊験仏(2/2ページ)
大阪大谷大准教授 横田隆志氏
この話には、窮地にある人を救う観世音菩薩の慈悲の心と、その場にふさわしい姿に変化するという智慧の心がよく表現されている。この意味で吉備真備の話は、『法華経』の教えに忠実な内容をもっているのである。
『長谷寺験記』にはこのような話が数多く収められている。そもそも上巻の19話と下巻の33話という話の数自体が、観世音菩薩普門品の説く十九説法と三十三身に基づく。個々の話の表現という意味でも、あるいはそれらの話を編纂する意味でも、『法華経』は『長谷寺験記』の成立と深く関わっている。
ところで『長谷寺験記』は長谷詣の記録でもある。当時、平安京から長谷寺まで、片道3日はかかった。『源氏物語』に登場する玉鬘の一行などは、長谷寺に至るまで4日かかったとある。本堂で夜通し祈りをささげ、復路も3日かかるとすれば、長谷詣に1週間はかかることになる。それでも多くの人々が長谷寺に詣でたのである。
『長谷寺験記』下巻第二十八話には、陸奥国松嶋から来た法師や、河内国高安の女人、大和国葛上郡の俗人等が本堂に集って、共に祈りをささげていた様子が描かれている。
大量の灯火器出土
長谷寺に限らないであろうが、参詣者のほとんどは、歴史に名を残すほど顕著な事績を残したわけではない。しかし実際に多くの人々が訪れたことは事実である。1998年、奈良県立橿原考古学研究所が境内発掘調査を行ったとき、本堂西側の斜面で大量の土師器杯・皿類が出土した。
同研究所によると、これは基本的にすべて灯火器(油皿)であり、出土状況から考えて、参詣者らによる日常的な献灯が累積した結果と理解できるという(『奈良県文化財調査報告書第八十四集長谷寺』)。その深さはおおむね地下5メートルに及ぶ。つまり千年以上にわたって長谷寺に参り、灯明をささげた人々の祈りの痕跡が、文字通り層をなして地中に積み重ねられているのである。長谷寺の大きな御本尊は今も多くの檀信徒を迎え入れているが、そのすぐ脇には、長谷寺悠久の歴史を物語る遺物が静かに眠っている。
一昨年、刊行された『豊山長谷寺拾遺第五輯之一石造品』においては、参道脇にある一基の石碑について報告されている。これは1894(明治27)年、総受付から仁王門までの参道を整備した記念碑である。牌身部には鳥井駒吉(1853~1909)をはじめとした38名の名前が刻まれている。鳥井は大阪麦酒会社(後のアサヒビール)を設立し、初代社長に就いた人物である。他にも鉱山業・鉄道・紡績会社などを幅広く手がけた藤田伝三郎や、日本銀行大阪支店長や阪神電気鉄道社長をつとめた外山脩造など、碑銘には明治期に活躍した大阪の実業家がずらりと並ぶ。
石碑には、境内の参道が危なくないよう長さ30余間、幅3間にわたり、平らな石を敷きつめたこと、鳥井の呼びかけに応え、先に挙げた実業家たちがすぐに資金を出資したことなどが記されている。以後、長谷寺に歩みを運ぶ人は、実は鳥井たちの整備した敷石を通って御本尊のもとに詣でているのである。
『長谷寺験記』が成立してからすでに約800年の歳月が流れたが、長谷詣に寄せる人々の思いに変わりはない。長谷寺の御本尊、十一面観世音菩薩は、これからも多くの人々の思いに耳を傾けてくださることだろう。