西田幾多郎と『教行信証』―「聖典」各所に書き込み確認(1/2ページ)
真宗大谷派・親鸞仏教センター研究員 名和達宣氏
西田幾多郎(1870~1945)という名前を聞けば、おそらく多くの人が第一に禅とのつながりを連想するだろう。確かに、若き日の西田が全身を挙げて打坐参禅に取り組んだことは、「寸心」という居士号とともに有名であり、自らもその哲学の背後に「禅的なるもの」を認めている。その一方で、生涯を通じて浄土真宗とも深い関わりをもっており、そのことが近年ことに注目されつつある。
西田は石川県の熱心な真宗門徒の家に生まれたため、幼少の頃より『歎異抄』や『御文』などの聖教に親しんでいたという。とりわけ『歎異抄』への思い入れは強く、東京が空襲の時、燃える街を眺めて「一切焼け失せても『臨済録』と『歎異抄』とが残ればよい」と発したことや、「親鸞の思想に入るには『歎異抄』が一番いいと思っている」と述べたことなどが弟子の追憶によって伝えられている。
また、青年時代には稲葉昌丸や暁烏敏、佐々木月樵など、同時代を代表する真宗大谷派の僧侶たちと親交を重ねていたことも知られる。そして、ある講演の中で、近代真宗教学の源流と目される清沢満之を指して「明治の哲学界で最も尊敬すべき人物」と称揚していたことは、近代日本の思想史を語るうえで見過ごすことのできない事実と言えよう。
親鸞思想との関わりをめぐっては、先に挙げたような追憶が残されるほか、代表作の『善の研究』(1911年)をはじめ、随所に引用が見られるため、従来の研究ではもっぱら『歎異抄』を中心に考究が繰り広げられてきた。ただし、『歎異抄』は親鸞思想のエッセンスとも言うべき語録のつづられた重要な聖教であるが、あくまでも門弟によって編まれたもので、親鸞自身の著作ではない。
一方、親鸞が自らの実存的な問いをもって著したのは『教行信証』であるが、それについては目立った引用がないばかりか、晩年(43年5月)になっても手紙の中で「教行信証などよみにくくてまだよくよみませぬ」という感想を述べているため、「それほど読み込まれてはいない」と見なされるのが大勢であった。
ところが、そのような感想を述べた直後、西田は同郷の親友・鈴木大拙を通じて山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』(全3巻)のことを知り、大拙から借り受けた後、自らもそれを購入している。この書は100年前の刊行以来、真宗教学の間で最もよく読まれてきた『教行信証』解説書の一つであるが、西田の使用していたものが晩年の執筆活動にあたった鎌倉の別荘に現存する。
その遺宅は、西田の没後、遺族より学校法人学習院に寄贈され、現在は西田幾多郎博士記念館――通称「寸心荘」――として在世時の空気を今日に伝えている。筆者は一昨年(2014年)、学習院の協力のもと、西田晩年の思索の底に流れる親鸞思想を発掘すべく、寸心荘に所蔵の『教行信証講義』をはじめとする真宗関連史料の調査を行った。すると、同書以上に、西田が『教行信証』を読み込んでいたことを裏付ける重要な証拠を発見することができた。それが『聖典 浄土真宗』(明治書院)である。
この聖典は、西田自身が日常的に読み開いていた様子が窺われ、外装の使用感が甚だしいばかりか、内部の至るところに書き入れや傍線、読み込まれた跡(手垢)を確認することができる。そして、それらの痕跡が集中して見られるのが、実は『教行信証』部分(特に「信巻」)である。加えて、書き込まれたメモの内容は『教行信証講義』の解説とほぼ重なる。そのため、西田がこの書を参照しつつ読書を進めていたことが判明するとともに、親鸞思想のどこに共鳴したのかを具体的に知る指標にもなるのである。