西田幾多郎と『教行信証』―「聖典」各所に書き込み確認(2/2ページ)
真宗大谷派・親鸞仏教センター研究員 名和達宣氏
それではなぜ、西田は最晩年に至って突然『教行信証』の読書に踏み切ったのだろうか。もちろん『教行信証講義』という良き解説書とめぐり会えたことが大きな要因になったことは間違いないが、それ以上に重要なのは、西田最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)が、親鸞の思想に深い共鳴を示した宗教論であったという事実である。
この論文は、太平洋戦争のただ中で「小生最後の考え」として著された宗教論であるが、そもそもの発端は「浄土真宗の世界観というものを書いてみたい」と思い立ったところにある。その大きなきっかけとなったのは、44年の暮れに、弟子の務台理作から『場所の論理学』という哲学書が届けられたことである。西田はこの書の中で展開される「場所的対応」という概念から着想を得て、最後の宗教論の中心概念となる「逆対応」を導き出すのであるが、時を同じくして、『教行信証』の思索世界に沈潜し、真宗の名号論を自らの論理のうちに吸収していったことが窺われる。と言うのも、その後、西田は務台と頻繁に手紙を交わしていくことになるが、その中で、大拙の名号の論理(『浄土系思想論』)への共感や、田辺元の「懺悔道」(後に『懺悔道としての哲学』として出版)への反感を通じて、常に話題の中心にのぼったのは名号であった。
そのためであろう、寸心荘蔵書の『聖典』所収の『教行信証』部分に残された書き入れは、特に名号と信心の関係について述べた箇所に多く見られた。例えば「信巻」の中核をなす「三心一心問答」の中の「至心則是至徳尊号為其体也(至心は則ち是れ至徳の尊号を其の体と為せるなり)」という一文に傍線を引き、さらには「六字名号」というメモが書き込まれている。そして、このような思索は「場所的論理と宗教的世界観」中の「仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」といった論述に少なからず反映されていると考えられるのである。
「絶対悲願」という言葉にも見られるように、西田哲学を貫くものは「悲」である。それが自らの身に自覚されたときは「悲哀」と呼ばれる。そして、西田は「悲哀」を「自己矛盾の事実」とも言い換え、さらにはそれを「哲学の動機」と位置づける。私たちはこの世界で生きていくうちに、必ず「矛盾」というものに衝突する。それは私たちの存在そのものの構造に根差しているため、如何ともすることのできない問題である。しかし、西田はその自力無功の自覚に伴って生じる悲しみこそが「哲学の動機」であると見定めたのである。
それゆえ西田は、親鸞の悲歎の言葉にも多分に共鳴を示している。『教行信証』「信巻」の「三心一心問答」において親鸞は、歴史を貫き迷い続ける一切衆生と、それを悲しみ傷まずにはおれない大悲心との対応関係を確かめた後、それにもかかわらず如来の大悲に背き続ける自身に対して「悲しき哉、愚禿鸞」と悲歎する。言うなればそれは自己矛盾的なる存在の事実に対する悲しみである。そして西田はその言葉の上欄に――おそらく深い共感を込めて――◯印を付けているのである。
若き日の西田が随想「愚禿親鸞」(11年)を著し、「愚禿」という名のりに「宗教の真髄」を見いだしたことはよく知られるが、「愚禿」とは親鸞が悲歎を吐露する時の名のりであり、西田が親鸞と出会った場所とも言える。そして何よりも、「愚禿釈親鸞」という名のもとに著された書――それこそが『教行信証』であった。