現代医学から見た真言宗の臨終行儀(1/2ページ)
真言宗豊山派西明寺住職 田中雅博氏
私は昨年10月に膵臓がんが見つかりステージⅣbと診断されました。膵臓がんの統計ではステージⅣbで生存期間の中央値は6カ月です。明らかな肝臓転移が無かったので手術可能とのことでした。進行した膵臓がんでは手術を受けても高頻度で再発し通常治癒は望めません。しかし、栃木県立がんセンターでの膵臓がんステージⅣbの手術成績は良好で術後生存期間の中央値が約1年でした。
手術を受ける価値があると判断し手術をして頂きました。その後、術後補助療法としてティーエスワンという抗がん剤を6カ月内服しました。この時点で最も有効と考えられた治療でしたが、私の場合は効果なく肝臓に転移が出現しました。そこでアブラキサンとジェムザールという2種類の抗がん剤を併用する治療を受けています。
古典の良い所は非科学の部分にあります。科学に非ざる部分というのは反証不可能な部分です。反証可能性は科学であるための条件であり、かつ科学の限界です。
例えば『一期大要秘密集』の初めに「往生」という言葉が出てきますが、これは反証不可能な概念です。死んだ後に別世界に目覚めるかどうかを、この世での実験や観測でテストすることはできません。これとは違って、生きている時間を延長する方法は反証可能です。「身命を惜しむべき用心門」で如何にして延命するかは、人体実験でテストすることが可能です。
祖師の言葉の中には反証可能な事も含まれています。それらが反証されたなら捨てるのは弟子の務めでもあります。反証された部分を捨てて残った部分にこそ祖師の言葉の価値があるのです。
お釈迦様が説かれた四諦によれば仏教は欲愛と有愛と無有愛の制御であり、「身命を惜しむべき用心門」は無有愛の制御、すなわち「死にたい」という渇愛の制御に当たります。延命可能であれば延命するということであり、このための方法は反証可能なので科学の領域です。
人間に関する科学では、人間を対象とした実験と観測が不可欠です。過去には非人道的な人体実験も行われました。ジェンナーは、東洋で古くから行われていた種痘の薬害を減らす目的で、使用人として雇っていた孤児に人体実験を行いました。サラ・ネルメスという乳搾りの娘から牛痘に罹った人は天然痘にならないと聞いて、彼女の手に出来た牛痘病変の膿を8歳のジェームス・フィップスに接種し、その後で死亡率3割以上の危険な天然痘を感染させたのです。
1964年にヘルシンキ宣言が行われ「社会や科学のためよりも、被験者の利益を優先する」という原則ができました。「人体実験」の代わりに「臨床試験」という言葉が使われるようになりましたが、人間を対象として実験と観測をすることに変わりはありません。
「証拠に基づく医療」というときの「証拠」は臨床試験の結果です。一つの臨床試験よりも複数の臨床試験で有効性が認められていれば、より確実な証拠となります。新しい治療法は現在最良の治療法と比較します。実験計画の全ての情報を倫理委員会(IRB)に提出して審査を受けます。一人の委員でも反対すれば倫理審査は通らず、その臨床試験は行えません。
私も昨年度まで20年ほど栃木県立がんセンターのIRBで外部委員をしていました。IRBでは科学的ならびに倫理的な審査を行い、施設外からも委員が参加していることが必須とされています。
私が治癒不能な病気だと知って、数人の方が民間療法を勧めてきました。人に勧めるからには証拠が必要です。「この治療法には科学がまだ追いついていないのです」などと無責任なことを言った人がいました。その人こそが、同じ科学の土俵に乗って、その治療法が良いという証拠を出すべきなのです。実験計画書をIRBに提出し、一人の反対もなく承認され、結果を論文として提出し、論文審査に通って医学誌に載ったなら、その治療法は現代医学として世界中の患者が受けられることになります。民間療法は、科学的倫理的審査を受けずに人体実験をしているのと同じなのです。